そんなもんだよ しょうがない/昭和のいるこいる

最近、本に関する投稿が多く、このブログ本来の「あなたをトホホと言わせたい」という趣旨から少々逸脱しているのかな、という気もします。そこで、トホホと言わせてくれそうなのいるこいるを取上げてみました。

この前、久々に「エンタの神様」を見た。しかし、なんか面白くない。この番組が始まった頃は腹を抱えて呵々大笑だったんですが、歳のせいでしょうか?最近は前にも言ったかもしれませんが、顔半分でハハんと笑える半笑い位が丁度良い気がしており、余りアクションや衣装や奇声の激しいコントは疲れる感じもあります。やはりしゃべくり漫才が安心です。

この歌は最近「先生」と呼ばれている高田文夫の作詞です。先生は結構色々作詞をしており、今度高田文夫作詞曲を特集してみたいと思います。この歌は歌詞はまあまあですが、玉置浩二の作曲が今市の感じがあります。その次はのいるこいる35周年の記念漫才です。彼らの漫才は常に全く同じパターンで安心して聞けます。マンネリの効用でしょうか。

 

トホホ度 ★★★★
お笑い度 ★★★
意味不明度 ★★☆
(1)そんなもんだよしょうがない 作詞:高田文夫 作曲:玉置浩二
(2)昭和のいるこいる 35周年記念漫才

映画「グリーン・ブック」のドン・シェリー

この映画はアカデミー賞を受賞したこともあり、ご覧になった方は多いと思います。黒人で金も教養もあり礼儀正しいピアニストのドン・シェリーがイタリア系白人で金も教養も無いが腕っぷしだけは自信のあるトニー・リップを当時 (1962) 未だ人種差別のきつかった南部への楽旅の為に運転手兼用心棒として雇います。南部の都市を演奏して回ると予想通り種々の差別にあいトニーが体を張ってドンを守りました。そんなドタバタの中で二人がお互いを徐々に認め合うという良いお話で、このストーリーは実話だそうです。尚、グリーンブックというのは当時黒人が宿泊できるホテルや黒人が入られるレストラン等を纏めたガイドブックのようなものです。


Tony Lip (運転手兼用心棒)と Don Shirley(ピアニスト)

ドン・シェリー(1927 – 2013)はジャマイカのキングストンに生まれ9歳の時に招待によりレニングラード音楽学院に留学しています。1945年にボストン・ポップス・オーケストラに招かれ演奏活動を開始しましたが当時のクラシックファンは黒人が舞台で演奏する事を受け入れず、ついに彼は挫折してしまいます。このため1953年にクラシックを諦め、黒人でも受け入れてくれるポピュラー、ジャズ音楽へ転向しました。

私は彼をこの映画で初めて知ったので音を探してみました。このCDは彼の”Don Shirley Piano (1959)”と”Don Shirley Trio (1960)”という二枚のLPを一枚のCDに纏めたものです。前者は一曲ごとに趣向を凝らしてはいますがジャズを弾くという意欲が少々空回りしている感じがします。後者は無理をせず素直にベースとチェロに合わせて歌いあげており、前者とは★一つの差がある感じです。南部への楽旅は1962年ですから、多分クラシック以外の演奏においても自己を確立し、自信も出てきた頃ではないでしょうか。そんな時に実際に差別を受けた彼の落胆は映画にも出てきますが、かなりのものだったと思われます。

ジャズのピアノトリオの始まりは戦後で当初はピアノ、ベース、ギターでした(例えばナット・キング・コールトリオ) が後にピアノ、ベース、ドラムスという編成が標準になります。しかし”Don Shirley Trio” ではピアノ、ベース、チェロになっています。やはりクラシックの人なので自身で編曲しやすいようギターの代わりにチェロを使ったのではないかと思われます。

このCDから二曲選んでみます。まず”Tribute To Billie Holiday”です。ビリーホリディが歌っていた ”Travelin’ Light” – “Don’t Explain” – “Easy Living” – “God Bless The Child”をメドレーで演奏しています。ビリーホリディへのトリビュートというとマル・ウォルドロンの”Left Alone”が有名ですが本曲はレフト・アローンの様に泣きまくらず、堂々と彼女へ語り掛けるようなリスペクトが聞き取れます。また、このメドレーの選曲がニクイ。彼女の一生を彼女が得意としていた歌をつないで表現しています。次は”By Myself”という小品です。一人になって自分だけ、という感情を非常にやさしいタッチで弾いています。

(1) Tribute to Billy Holiday
(2) By Myself

この命、義に捧ぐ/門田隆将著

一読三嘆、事実は小説より奇なり。
以前仕事の関係で台湾海峡の地図を眺めていた時に、中国福建省厦門(アモイ)の沖2~3㎞の金門島が台湾領である事を知った。恥ずかしながら何故かは分からなかった。しかし、本書には金門島が台湾を守った。そして金門島を旧陸軍根本博中将が守ったという驚愕の事実があった。

根本博は元日本陸軍北志那方面軍司令官であった。8月15日の玉音放送の後、武装解除の命令が出たが拒絶した。上官の命令は絶対であり、従わないのは重大な軍紀違反である。しかし根本中将は内蒙古の在留邦人の命を救うため終戦後もソ連軍と激戦を展開し現地の軍人軍属、その家族約4万人を日本に引揚げさせた。一方、満州の関東軍は武装解除したため日本軍が遺棄した武器をソ連軍が接収し、その武器で多くの日本兵が殺され、シベリア抑留の憂目に逢った。

ソ連軍の侵攻を食止め、邦人救出に尽力する根本を、それまで敵であった国民党の蒋介石総統は黙認し攻撃するどころか援助してくれる場面もあった。また蒋介石は1943年のカイロ会談でルーズベルトが日本敗戦後、天皇を処刑すべしと主張したが、頑として反対した。後年この二つに根本は非常な恩義を感じたと語っている。

戦後、蒋介石が率いる国民党と毛沢東の共産党との国共内戦が勃発し、国民党は敗走を重ねた。当時、日本にも何とか国民党を助け、中国が共産化するのを防ぎたいという人士があり、根本自身もそう思っていた。そこで根本を現地に派遣する事で纏まった。しかし当時の占領下では日本人が外国に行くには密航しかない。よって台湾人や日本人の有志が台湾密航のため、金策に走るが思うように資金が集まらない。しかし時間がないので根本は家族には釣りに行くと言って 釣り竿とほんの少しの身の回りの品を持って鶴川の自宅を出た。

当初博多からの予定であったが、船の調達が上手く行かず、急遽宮崎からの出航になった。船といってもオンボロのポンポン船しか無い。昭和24年6月(1949)、夜陰に乗じて船出したが機関が故障したり、船底に浸水したりで、 まさしく命がけの台湾行であったが14日後無事、基隆に到着した。しかし怪しげな密入国者一団と見做され投獄される。二週間後根本の素性が知れ、四年ぶりに後蒋介石と会見出来た。

蒋介石は根本を信頼し、国共内戦の作戦参謀顧問を依頼する。その時点で国民党は上海、重慶も放棄し敗走を続け、最後の拠点は厦門のみとなった。根本は早速現地に赴き、調査を開始する。しかし当時の戦力では勝てる見込みがなく、食糧の自給も無理と判断した根本は厦門を捨て、沖合の金門島で敵を迎え撃つ事にした。厦門での抵抗で時間を稼ぎ、その間、塹壕を掘り補給路を整備し、地元住民に塁が及ばないよう細心の注意を払った。

10月24日ついに数百隻のジャンクに分乗した約3万の共産党軍が侵攻してきた。しかし共産党軍は連戦の勝利で油断があったためか根本の作戦通り、すり鉢型の海岸に誘い込まれ、周囲から攻撃により多くの戦力を失った。また敗走できないよう塹壕に隠れていた兵隊が敵の船を焼き払った。 その後金門島は地下要塞化を完成し朝鮮戦争で米軍が台湾海峡を封鎖したため、共産党軍の海上侵攻は不可能となった。暫く放火が飛び交ったが金門島と台湾は守られた。

根本が台湾に渡った事はGHQの知る事となり当時の国会でも取り上げられた。また戦後、軍人への反感が強まっていた新聞、雑誌がかなりのバッシングを行った。世間の厳しい目に晒された留守家族には、このためか何の保証も、援助もされなかった。

三年後根本は帰国した。羽田空港で航空機から降り立った時の写真が残っているが、右手にはしっかり釣竿が握られていた。羽田での記者会見で「終戦時百万の将兵を無事帰国させて下さった蒋介石総統に日本人の一人として万分の一の恩返しをした。」と語った。また現地では助言はしたが「前線に出て部隊の指揮をとったりしたことはない。」とはぐらかし金門島戦には一切ふれていない。確かに根本は作戦を立案したが部隊を指揮したのは国民党軍の将校であった。

平成21年(2009)この地で戦役60周年記念式典が開催されたが当時の馬英九総統は根本の貢献に言及しなかった。かつての敵国である日本人の手助けを得て国民党軍が勝利したとは言えない面子があったからだと思われる。 このように殆ど抹殺されかけていた根本の事績を大変な調査、取材活動を重ね、記録に留めてくれた著者には頭が下がる思いがする。是非本書の一読をお勧めする。(第19回山本七平賞受賞)

ジャニー喜多川異聞

いささか旧聞に属する話となった感がありますが、7月9日にジャニー喜多川さんがお亡くなりになしました。享年87。その後彼の生涯、ジャニーズ事務所の功罪について色々なマスコミが饒舌に語っていましたが、どれも同じような話でした。しかし、一番笑えたのは高田文夫です。高田文夫は元来放送作家ですが、TV、ラジオで活躍しており、また立川談志の弟子となって立川藤志楼(トーシロー)で高座を務めCDも出しています。

高田文夫は2012年に心臓が止まり生死の境をさまよったが、7ヶ月間の闘病生活を経て奇跡的に復帰。止まった心臓を手術して生き返り、70になっても、これだけのスピードでギャグを撒き散らす人はまずいません。 高田文夫は今が最盛期と言う人がいますが、我誠に同感ナリ。 余談ではありますが「ラジオビバリー昼ズ」で高田文夫が心臓病で入院した事を報じた直後に掛かった曲が桑江知子の「私のハートはストップモーション」。さすがニッポン放送です。

ジャニーズは代々木にあった米軍のワシントンハイツ(後の東京五輪選手村)の内側に居たジャニー喜多川が少年野球チームを作り、そのチーム名をジャニーズにしたところから始まる、というのは誰もが知っている話でですが、なんとその現場に高田文夫がいたそうな。詳しくは音を聞いてください。

令和元年7月12日 ラジオビバリー昼ズ
(高田文夫 、松村邦洋、磯山さやか)

世間でジャニーさんの話題が蔓延しているのを見聞きし、俺もとばかりジャニーさんとの出会いを田淵幸一が松村邦洋に語ったそうです。これを松村が翌週(7月19日)の「ラジオビバリー昼ズ」で披露しています。 彼によれば田淵幸一のバッティングを最初に評価し、芸能界でなく野球を勧めたのはジャニーさんという事になります。

ところで、松村邦洋は山口県の田布施高校を留年するほど勉強が出来なかったにも関わらず、野球と芸能界の知識は端倪すべからざるものがある。林家ぺー、パー子夫妻が芸能人の誕生日を殆ど記憶しており、これもすごいとは思われるが松村とはレベルが違うようだ。


令和元年7月19日 ラジオビバリー昼ズ
(高田文夫、松村邦洋、磯山さやか)

ジャニーズの楽曲についても、あちこちでジャニーズ特集が放送されました。その中ではやはりクリス松村の「いい音楽あります」です。(このダサいタイトルなんとかなりませんかね)。曲はジャニーズ(真矢ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦)のライブ音源で、超レア。勿論初めて聞きました。当時ジャニーさんがブロードウェイ的なミュージカルを目指していた事が分かります。3曲目はブルーコメッツとの共演で、これも珍しい音です。

令和元年7月14日 クリス松村の「いい音楽あります」

正しいFUCKの使い方/MADSAKI監修

最近のアメリカ映画を見ていると、セリフの中にしょっちゅう”fuck”が出てきます。戦争映画だとセリフはそればっかりという感じです。少なくともかつてのオードリー・ヘップバーンの映画には出てきませんでした。”fuck”は新しい言葉のような気がしてましたが、20世紀の始めから使われていたようです。語源を調べてみましたが諸説あり、どれも無理やりのこじつけという感じで、はっきりしません。まあ、俗語ですからやむえないところです。

“fuck”のような言葉は学校では習いませんし、英検やTOEICにも出てきません。しかし本書により”fuck”のみならず”shit”, “damn”, “hell”の正しい用法も学べます。これらはどれもイケナイ言葉ですが、その程度がかなり違うようです。本書では危険度を以下のように分類しています。しかし、昔イケナイ言葉だと習った”hell”がこの表では「一般的かも」と評価されています。時代の流れでしょうか?

“fuck”は本来の性交という意味以外に様々な用法があります。
⦿ 動詞として;
Are you fucking with me?/あんた、私のことバカにしてんの?
Don’t fuck it over./しくじるなよ
Don’t fuck me over./なめんなよ
Do me a favor and just shut the fuck up for the fuck’s sake./お願いだから黙っといてくれ
⦿ 形容詞の強調として;
This pizza is fucking delicious./このピザは超おいしい
This place looks so fucking familiar./この場所はとても良く知っている
⦿ 形容詞自体に入れて;
delicious –> deli-fucking-licious/超おいしい
fantastic –> fan-fucking-tastic/超すてき
incredible –> in-fucking-credible/信じらんなーい
⦿ 疑問文に入れて;
What the fuck are you doing here?/いったい、お前はここで何をやっているんだ
Where the fuck are you going?/いったい、お前はどこにいくんだ?
Who the fuck are you?/いったい、お前は誰なんだ

“fuck”が世界中で広く使われるようになった一つの要因は映画”Woodstock”の影響があると思います。Country Joe & the FISHのリーダーであるCountry Joe McDonaldが歌い始める前に観客に叫ぶと会場全体が反応しました。
Give me an “F”・・・・・・ “F”!!
Give me a ”U”・・・・・・・”U”!!
Give me a “C”・・・・・・・ “C”!!
Give me a ”K”・・・・・・・”K”!!
What’s that spell?・・・・・FUCK!!
What’s that spell?・・・・・FUCK!!
・・・・・・・・・

映像でご確認ください、30万人の観客が一斉にです。かなりの迫力です。
これ、英語だからボヤっと聞いてられますが、日本語の四文字言葉でやったらどうでしょう?
余談ですが、今年はウッドストック50周年です。40周年の時は結構盛り上がったんですが、今年は何の動きもありません。もうみんな忘れたという事でしょうか。

I-feel-like-I’m-fixin’-to-die rag / Country Joe McDonald

画面にカラオケのように歌詞が出てきますので、その部分だけ訳してみました。

And it’s one, two, three/それで、1,2,3
What are we fighting for?/僕らは何のために戦っているのか?
Don’t ask me, (I) don’t give a damn/僕に聞かないでくれ、僕は罵りはしない
Next stop is Vietnam;/次はベトナムだ
And it’s five, six, seven/それで、5,6,7
Open up the pearly gates/天国の門を開けろ
Well there ain’t no time to wonder why/そう、なんでだろうなんて考えている暇はない
Whoopee! we’re all gonna die/イェイ!僕らはみんな死ぬんだ

【narration】
Listen people I don’t know how you expect to ever stop the war/みんな聞いてくれ 僕は君たちがどのように、なんとかして戦争を止める事を期待しているかは分からない
If you can’t sing any better than that/もし、君達がそれ以上上手く歌えないなら
There’s about 300,000 of you fucker out there/此処には約30万人の君たち阿保がいる
I want you to start singin’/僕は君たちに歌い始めて欲しい
Come on/さあ

Now come on mothers throughout the land/さて、国中のお母さんたち
Pack your boys off to Viet Nam/急いで君の息子達をべトナムへ送り出してくれ
C’mon fathers don’t hesitate/さあ、お父さんたち躊躇しないで
Send your sons off before it’s too late/あなたの息子を手遅れになる前に送り出してくれ
Be the first one on your block/あなたの地区の一番で
To have your boy come home in a box/あなたの息子が箱に入って帰って来られるように
Alright/オーライ

この歌についてCountry Joe McDonaldのインタビューが残っています。これによると舞台に上がって二曲歌ったが、聴衆が聞いてくれず全然ウケない。そこで一旦舞台から降りてマネジャーに FISH Cheerをやって良いかと聞いた。彼は普段から舞台に上がって歌う前に Give me an F, Give me an I, S, H, What’s that spell FISH!とやって盛り上げていたようで、これをFISH Cheerと呼んでいた。やって良いかと聞かれたマネジャーは当然FISHだと思ってOKしたら実はFUCKだった。これが30万人の大合唱となりました。

ベトナム戦争の頃の米国は徴兵制でした。当時の若者たちはひょっとしたら自分もベトナムに連れて行かれて死んでしまうんぢゃないか、というウッスラとした恐怖感と不安が蔓延しており、40万人(主催者発表)の若者たちがウッドストックにそのはけ口を求めて集まって来たんだと思います。未だに語り継がれるここでのジミ・ヘンドリックスのギターによる歪んだ米国国歌の演奏がその頃の彼らの心情を如実に表していたように思います。
尚、本書にはご丁寧にもCDがついています。これを聞いてFUCKの正しい使い方を身に付けてください。

結婚してチョ/かまやつひろし

グループ・サウンズ全盛時代の色んなバンドの中でスパイダースが一番好きでした。スパイダースは堺俊二の息子である堺正章と井上順が前で歌っていましたが私は、かまやつひろしが作詞作曲した「フリフリ」、「バンバン」やジョンリーフッカーのカバーである「ブンブン」が単純で覚えやすく、かまやつのファンになりました。

かまやつひろしがスパイダースに入団する以前は、水原弘、井上ひろし、かまやつひろしで「三人ヒロシ」と呼ばれていた。と、此処まではどこにも書いてありますが、実際どうだったかという資料は余りありません。

スパイダース入団以前の二年間はテイチクの専属でした。タブレット純の研究によれば、その間シングルを19枚出していますが全く売れなかったようです。テイチク時代の音は「かまやつヒロシの俺の歌を聞いてくれ」というCDに纏められています。勿論今は廃盤で、中古盤を長い間探してましたが、やっと入手できました。収録された歌の中で洋盤のカバーはそれなりに聞けますが、オリジナル曲はトホホ度満載の訳分からん歌ばかりです。タブレット純が生前インタビューしたところ、自分の本意ではなかったが会社の指示でしょうがなく歌わされたと言ってたそうです。

テイチク録音歌曲を集めたCD

今回は、このCDの中でもかなりトホホ度の高い「結婚してチョ」を選んでみました。何度か繰り返される「結婚してチョチョ」という歌詞が実に間抜けでトホホ感満載です。「何々してチョ」という言い回しは最近聞きませんが、昭和の時代には確かにありました。富永一朗の漫画「チンコロ姐ちゃん」が初出のような気がしますが、定かではありません。尚、冒頭のジャケ写はCD解説書の中に当時のシングル盤のジャケットの写真が何枚かありましたので、これをコピーしました。

トホホ度 ★★★★☆
お笑い度 ★★★☆
意味不明度 ★★★

ダスターシュート・ベイビー/畑中葉子

ご承知の通り、畑中葉子は故平尾昌晃とデュエットした「カナダからの手紙」が大ヒットした後、エロ路線に転じ「後ろから前から」、「もっと動いて」という名曲を発表しています。またビートたけしとの共演で「丸の内スト-リー」という少々笑える歌もあります。

この歌もその路線の続きですが、これまでとは少々趣が異なります。一番の歌詞を引用してみます。

汗ばんだ首筋に はりつく髪
かきあげて後から あなた誘う
「アレがないの」突然言うと
ホラ体の上のあなたの動きが止まるわ
「冗談じゃないぜ 始末しろ」なんて
女いつでも獣よ しなやかに生きるわ
生まれてくる者たちを 拒みはしないわ

責任なんて 言わないわ
安心して お行きなさい Ah….
乱れて乱れて 絹を引きさいても
すましてすまして ルージュ引けるのよ

少し手を入れたくなる歌詞ですが、結構キツイ事言ってます。 タイトルも当時の世相を反映した凄いタイトルです。昭和というのは実に奥深い良い時代でした。今ではとてもぢゃないが無理でしょう。こんな内容なのでトホホ度は高いですが、お笑い要素は余りありません。

こういうテーマの歌は少ないと思いますが、私が一つ思い出すのはマイケルジャクソンの「ビリー・ジーン」(Billie Jean)です。歌詞の一部を引用してみます。

Billie Jean is not my lover/ビリー・ジーンは僕の恋人じゃない
She’s just a girl who claims that I am the one/ 彼女は僕が相手だって言ってるただの女の子さ
But the kid is not my son/ でも、その子は僕の息子じゃない
She says I am the one, but the kid is not my son/
彼女は僕が相手だって言ってるけど、その子は僕の息子じゃない  

探せばこの種の歌はもっと出てくるかもしれませんが、”Billie Jean”は世界中で知られている大ヒット曲で、これ以上のものは無いでしょう。

 

トホホ度 ★★★★
お笑い度 ★★☆
意味不明度 ★★


楽園のカンヴァス/原田マハ著

この小説は前から気になっていたが、やっと新潮文庫で読むことができた。著者は岡山生まれで子供のころは大原美術館が遊び場だったようだ。早大二文美術史科卒業後、森ビル美術館設立に関わり、この間MoMA(ニューヨーク近代美術館)で半年研修を受けた経験がある。小説の舞台は大原美術館、 MoMA、スイスのバーゼルと国際的に展開する。

早川織絵は米国で生まれ、パリで美術史を研究し博士号を取得。当時若きルソー研究家として学会で注目されていた。仏人と結婚し一児を設けたが、離婚し倉敷の実家に戻って大原美術館の監視員を勤めている。 1983年 、MoMAのアシスタント・キュレータのティム・ブラウンはアンリ・ルソー展の企画助手をしていた。二人はバーゼル在住の謎の大コレクター、バイラーが所蔵するルソー作「夢をみた」の真贋鑑定を依頼される。「夢をみた」はルソーの代表作である「夢」(表紙絵)に酷似している大作であるが、文献には現れていない。バイラーはこの二人をバーゼルの屋敷に招き、一週間滞在させる。初日に「夢をみた」を見るがそれ以降は一週間かけて、ある小説を読み、その内容から七日目に講評を行う。バイラーが満足する講評を行った方に、その絵のハンドリング・ライトを委ねる。もし、そうなれば莫大な利益を得る可能性もある。

小説の中で小説を読むという仕掛けが面白い。その小説にはルソーとピカソの交友と絵の謎に関するヒントが描かれており、この小説の中の謎と現実の謎が交錯する。また、インターポールやバイラー自身の謎もあり、日本人が書いたミステリーとは思えない面白さがある。そして、最後は意外にもハッピー・エンド。

絵画は音楽や文学と違って100億円を超える値が付くものもあり、昔から盗難や贋作事件が多い。そんな事件を扱った美術ミステリーは世界中で小説や映画になっているが、解説の高階秀爾(大原美術館長)は「これまでに書かれたどんな美術ミステリーとも違う」と述べている。 殺人事件が起こるわけでは無し、派手な秘宝争奪戦が演じられるのでもないが、その謎の解明を核として豊かな物語を紡ぎだす筆力に唸らされた、と激賞している。

ウルトラCでやりましょう/二宮ゆき子

東京五輪切符の抽選申し込みはややこしかったですね。カートに入れて、電話もちゃんと掛かったので完了と思ってログアウト。しかしtokyo2020からメールが来ないんで、不審に思い、やり直したらOKになりました。カートに入れた時点で完了と誤解した人も結構いたようです。自分が申し込んだ切符は全部当たると100万円越えなので少々不安もありましたが、結局陸上競技が4枚で、まあまあの処に納まりました。しかし、PCに慣れない年配のに方は無理ですね。

オリンピックの歌となるとやはり三波春夫の「東京五輪音頭」だと思いますが、他にも色々ありました。この歌もその一つです。「ウルトラC」は体操競技でC難度を超える画期的な美技という意味で、当時の流行語になりました。この「ウルトラ」が後のウルトラQとかウルトラマンの元になったという説もあります。 現代の体操ではG難度まであり、当時の難易度Cは今では簡単な部類に入るようです。 処で「ウルトラCでやりましょう」というのは、どういう意味なんでしょう?今までにない新しい技でやりましょう、という事なんでしょうか?

この歌の歌詞は全般的に中々面白いですが、特に3番はトホホ感溢れてます。

色気あるのに ない振り見せて
淑女ぶるのは およしなさい
男心を 顔で読み
お酒飲ませて そのあとは
ウルトラCで やりましょう

これは今で言う逆ナンでしょうか?

全般的に意味は分かりやすいのですが、トホホ度、お笑い度は高得点になりました。この歌はジャケ写からも分かるように当時大ヒットした「まつのき小唄」のB面です。ついでにA面もリンクしておきました。

しかし、来年の東京五輪に関する歌が無いわけでは無いでしょうが、今市盛り上がりませんね。どなたか「東京五輪音頭」に匹敵する新しい国民歌謡を作ってほしいものです。

トホホ度 ★★★★
お笑い度 ★★★☆
意味不明度 ★★☆
ウルトラCでやりましょう
まつのき小唄

崩壊の森/本城雅人著

学生時代にロシア語を学んだ縁で土井垣侑(どいがきたすく)は東洋新聞ロシア特派員としてモスクワに赴任した。東洋新聞のモデルは産経新聞である。後書きで著者は元産経新聞ロシア特派員に取材し、当時の産経新聞記事を参考にしたとしている。

土井垣が赴任したのは昭和62年(1987)、チェルノブイリ事故後1年。それから平成3年(1991) 12月25日、ゴルバチョフ大統領がソ連邦消滅を発表する日まで、昼夜を問わず取材活動を続け、現地の生の声を拾うべく毎夜のようにバーでロシア人が心を開いて語ってくれるまでウォッカを呷り続ける。当時のロシアは言論、報道の自由は制限されており赴任当初は写真電送機もFAXも無かったので検閲、盗聴を避けるため、テレックスでローマ字原稿を送っていたようだ。

ソ連崩壊への段階でお約束の土井垣のロマンスがあり、スパイだった美人実業家、なんか胡散臭いけどしっかりしているロシア人、ソ連高官との交際等々から平成2年(1990)2月2日、共産党の独裁放棄をスプークする。同8月18日、ゴルバチョフがバカンスで不在の隙を狙ってクーデタが発生し、新婚の妻と外国人アパートから非難した。

ソ連崩壊までの数年間がノンフィクションで繋がっており、そこに土井垣の上司との葛藤、悩み、そして探偵小説的なスリルが相まってスピード感がある。全てが事実ではないとはいえ、特派員の仕事の厳しさが良く分かり、良質のエンタテインメントと感じた。ストーリーは特派員の目で進行するが、欲を言えばソ連政権内部の様子ももう少し書いてもらえると一層面白く感じられたかもしれない。

話は変わるが、先日ネットでウクライナから留学しているナザレンコ・アンドレーさんの講演を見た。ソ連邦が崩壊しウクライナ共和国は独立した。しかし、ソ連がロシアとなってもその本質は変わらず、ウクライナ人の浅慮によって、平成26年(2014)にクリミア侵攻を許し、今なお戦火は止んでいない。この現状を披露してくれた彼の講演は我々に考えさせるものがある。約7分の講演ですので、是非聞いてみてください。