岸恵子自伝/岸恵子著

読書のお時間

朝のラジオに岸恵子が出ていた。岸恵子というと「わりなき恋」を読んでいたせいもあり、おフランスの優雅な女優という感じを抱いていた。しかし彼女は戦争体験が原点だと言い、戦争の思い出を語った。昭和20年3月10日に東京、5月29日に横浜に空襲があり、B-29が焼夷弾を投下し、戦闘機が機銃掃射した。当時横浜に住んでいた12歳の岸恵子は空襲警報が鳴ると大人からすぐに防空壕に入れと言われた。しかし、その防空壕は土手に横穴を掘った粗末なもので、これでは駄目だと大人の手を振り切って逃げた。途中、機銃掃射を受けたが無事だった。木登りが得意で松の木に登って自宅が焼けるのを見ていた。防空壕は潰されてしまい中にいた人は死んだ。この時から「もう大人のいう事は聴かない。十二歳、今日で子供をやめよう。」と決めたと書いている。

終戦後は食糧難である。ある日なけなしの白米をお釜で炊いていると蒸らしている最中に釜ごと盗まれ、母が追いかけたが、華奢な母が追いつけるわけもなく、畑にへたりこんでしまった。親戚に農家が無いので白米を手に入れることは大変な苦労だった。着物や備品を食料に替え大変な苦労したようだ。

「幼いころから物語を読むのが好きだったわたしは、このころから川端康成の文章に魅せられていた。『花のワルツ』を読み、挫折していくバレリーナの切ない美しさに惹かれて、わたしもバレエをやりたいと思った。」そして兄と共にフランス文学にも親しんだ。幸運にも銀座の交詢社ビルにあるバレエ学校に通わせてもらった。授業が終わると同級生と横浜駅まで走り、新橋で降りた。高校では演劇と舞踏サークルに属し、文化祭では劇を自作し、舞台装置から演出までこなした。舞踏サークルでは草笛光子と一緒だった。

レッスンを終えた夕暮れ、同級生と有楽町でジャン・コクトー演出の「美女と野獣」のスティル写真を見てギョッと立ちすくんだ。が観たいと思った。当時は校則で保護者が同伴しない映画は禁止であった。しかし「『ここは東京よ、校章を外せば平気』とひるむ敦子さんを引っ張って観た映画は、わたしの一生を大きく変えることになる。白黒の映像は美しく、私は『映画』という不思議に魅せられた。」

その敦子さんが「叔父が松竹大船撮影所の所長さんと親友なの。撮影を見せてくれるかもしれない」というので学校にも親にも内緒で見に行った。撮影所は暗く、埃っぽく雑然としていた。洋室のセットでは李香蘭が撮影中であった。見学後吉村公三郎監督が「ケーキでもごちそうしましょう」と言ってくれた。「お嬢ちゃんたち、女優になりたいと思いませんか」。これが岸恵子の女優としての第一歩だった。

岸恵子と田中敦子(小園蓉子)は研究生になり撮影所の出入りが自由になった。二人は昭和25年「アメリカ博覧会の一日」という教育映画に出演しており、岸恵子のデビュー作と思われる。昭和26年、大学入試の準備に専念していたとき、松竹から中村登監督の映画「我が家は楽し」に女学生役で出演依頼があった。父には猛烈に反対されたが「これ一本だけ」と出た映画が当たり、その後多くの映画に出て「結局は大学を諦め女優街道を走る身となった。」この年、京都撮影所へ行かされ「獣の宿」で初めての主役を演ずる。共演は鶴田浩二で「壊れ物を扱うように私を大事にしてくれた。」しかし、初めて逢った時は相手が鶴田浩二だという事も知らなかった。

この頃から既にスターと呼ばれるようになっていたが、「身分は相変わらず大部屋所属の研究生」。主役を掛け持ちしてもギャラは無く、給与は月に4,500円でロケに出ると手当てが240円付いた。その当時のスターは映画一本50万円だった。当時の物価から考えればかなりの高額であるが、色々の人の証言、文献からこのぐらいだったと思われる。いつまでも研究生はないだろうと佐多啓二が動いてくれて、初めて5万円のギャラを貰った。「〈やっと女優になったかな〉という感慨があった。」

「『君の名は』の主役、氏家真知子を振り当てられたときはには困惑した。」津島恵子が「ひめゆりの塔」(昭和28年)に出演していたので「仕方なく回ってきたらしいが、どう考えてもわたしのミスキャストだと思った。」しかし、大変な人気だったようで「三部作からなる『君の名は』の撮影細部は覚えていないが、ロケ撮影に押し寄せた群衆の熱気に恐れをなした感覚は身体に染みついている。」北海道美幌峠のロケでは雪が降り始めた。フランス製の白いストールを被ったが、大庭監督は難色を示した。しかし、雪が本降りになり、監督は不承不承使用を許可してくれた。「それが『真知子巻き』として、当時の女性たちの間で大流行した。」

昭和30年、デヴィット・リーン監督の「風は知らない」の主役に抜擢された。撮影のため、パリとロンドンに赴く。しかし、プロデューサーの急死で撮影中止となり、かなりのショックを受けた。しかし、フランスのイヴ・シャンピ監督から「忘れえぬ慕情」の出演依頼が届いた。彼の映画を見て感動していた岸恵子は急遽パリに行き、フランス語の勉強を始めた。監督のイヴ・シャンピは元軍医でノルマンディ上陸作戦にも参加した。その頃司令部から16㎜のカメラを渡され、占領されたパリとド・ゴール将軍が凱旋するまでを撮り、これが「栄光の仲間たち」として世界的なヒットになった。撮影が行われた長崎では「君の名は」の岸恵子が来た、という事でロケは群がる見物人で撮影がしばしば中断した。

「『日本はいま自費での海外旅行を禁じている。ぼくが招待するからヨーロッパやアフリカを見てみませんか』〈え? これって……プロポーズ?〉わたしのややこしく複雑だったにちがいない顔を見て、彼は笑った。」

長引いた池辺良との「雪国」の撮影が終わり、昭和32年イヴ・シャンピと結婚するためエール・フランス機で旅立った。当時は個人での海外旅行は禁止されており、円貨の持ち出しもご法度であった。このため夫となるイヴ・シャンピが海外の生活を保証する調書と財産調書を提出して出国の運びとなった。勿論当時は直行便は無く、南回りで48時間かけてパリに到着した。

仲人をフランス大使にお願いしたが、俳優が大使館を売名行為に使うとは、と拒否された。偶然にもその時ペンクラブの会合で公式訪問していた川端康成に仲人を依頼すると快諾された。岸恵子は熱心な仏教徒と思っていたイヴ・シャンピはパリのキリスト協会を避けて、ヴァルモンドワという美しい谷間の村で結婚式を行った。イヴ・シャンピの友人宅に村人を呼んで三日三晩の披露宴。シャンパンを300本空けた。その後三ヶ月という長い新婚旅行に旅立った。陸路イタリアに入る途中岸恵子が痛みを訴え、動くことも出来なくなった。リヨン迄走り、盲腸と判明したので手術した。術後、尼僧院にある病院で寝ていたが、ある日見知らぬ男がベッドにのしかかり、額の氷嚢を外して写真を撮られた。その後日本の三大新聞に「これが、岸恵子のフランス到着後の姿である」という意地悪なコメントと共にその写真が掲載された。

イヴ・シャンピの家族は皆教養の高い貴族的な音楽一家であった。フランス語はもとより堅苦しい食事の作法、社交儀礼についても色々と仕込まれた。「結婚以来の七年間、一人娘のわたしを手放した両親に親孝行するため、夫は年に一、二回飛行機の往復チケットをプレゼントしてくれた。」初めての里帰りの飛行機のタラップを降りると黒山の報道陣と木下恵介監督が出迎えてくれた。自分としては女優と決別したつもりだったが、監督の勧めに負けて「風花」に出演した。ロケはしばしば悪天候で中断。その間持参したゾルゲ事件の本を読んで人間ゾルゲに魅力を感じ、文献を読み漁り、映画の企画を立てた。イヴ・シャンピも賛同してくれ、日仏合作の「ゾルゲ氏よ、あなたは誰?」のシナリオを書いた。共同制作の松竹は共産主義を是としたゾルゲを描くのに、思想的に正反対の脚本を書き、最後をメロドラマ仕立てに変えてしまった。邦題を「スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜」に改めて昭和41年に公開されたが試写を見て「慙愧にたえぬ思いで胸が塞がった。」この映画は欧州で評判になり、ゾルゲの故郷アゼルバイジャンの首都バクーにはゾルゲ記念碑やゾルゲ通りができ、記念切手まで発行された。

岸恵子が日本に、アメリカと長い不在が重なった頃、離婚歴のある女性が夫の事務所に頻繁に出入りするようになったが「私は心を開いて彼女を迎えていた」。夫が南仏で撮影している時は十数人のスタッフが別荘に泊まり込んでいた。そこにもその女性があらわれた。「彼女が夫と特別な関係になるなんて考えもしなかった。」しかし、10歳になる娘はそれを見抜いていた。撮影が終わってスタッフも夫もパリに引き揚げた日の夕暮れ、娘が忽然として姿を消した。村人が総出で探してくれ、隣家の麦畑の中で泣いている娘をその家の主婦が見つけてくれた。その主婦から娘の傷心の理由を聞き、余りのショックに体が震え、「パリから飛んできた夫の懇願にも拘わらず、わたしは我武者羅に離婚を決意した。」昭和50年、41歳の誕生日だった。

尚、昭和47年、『約束』と『雨のアムステルダム』で萩原健一と共演した。その間、二人はあやしいという噂が飛んだが、本書ではこれには全く触れていない。(当然か)。

昭和57年夏、市川崑監督から突然の電話があった。「ミスキャストなんやけど、出てや」「どんな役ですか」「『細雪』の長女や」。当初山本富士子を予定していたが都合がつかず。東宝の社長も岸恵子でなきゃ駄目だと言っているらしい。ミスキャストと言われながらも代役を務めた。キネマ旬報昭和58年5月号に淀川長治と市川崑監督が対談している。「『細雪』四姉妹のスティル写真を谷崎潤一郎夫人に見せたら、着付けが違うと注意された。僕も文楽の人形みたいに着せようとしていたんだけど…」と監督。「岸さんの着方が関西的なの」とは淀川長治。「僕は昔からあの人のことを”おひきずり”と言ってるんです。つまり、昔の女郎みたいに着るでしょう、いいんだなあ。自然で、そのくせ色気があって、女らしくて」。

「おひきずり」を辞書でみると「《着物の裾を長く引きずるように着るところから》しゃれて着飾ってばかりいて働かない女を、あざけっていう語。引き摺り女。おひきずり」とある。谷崎夫人は堅気の着方ぢゃないと思われたのでしょうか。

離婚後はあちこち途上国を取材して歩いた。しかし、かなり危ない目にあったようだ。イスラム教国のイランにスカートで出かけ、街頭で写真を撮っていると毎日新聞の関係者に服装をチェックされ、ズボンを穿かされた。そのままの恰好では拉致されても文句は言えない状況である。怖いもの知らずであった。アフリカ取材では風土病も経験した。また、パリに帰ってからはリポーターとして日本のTVにフランスのニュースを発信するなど元気に国際ジャーナリストとして活躍した。

平成24年、娘が日本国籍を取れないこともあり、単身帰国した。翌年市川崑監督の「かあちゃん」に出演し日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を取った。平成25年、「わりなき恋」を出版。映画化したかったが主人公役が見つからず、「自分でやればいい」と言われたが80歳ではさすがに無理と悟り、一人で朗読劇として演じ講評を博した。

自伝であるので、自身の記憶を元に執筆されているが、時間的に前後しているように思える部分もある。このあたりは編集者がきちんとチェックして適宜修正して欲しかった。本書には彼女が所有していた貴重な写真が多数掲載されており興味深い。