最後のダ・ヴィンチの真実/ベン・ルイス著、上杉隼人訳

読書のお時間

ダビンチのキリスト画に510億円、史上最高額で落札 NY (AFP)

2017年11月16日 ニューヨークのクリスティーズで行われたレオナルド・ダビンチの絵画「サルバトール・ムンディ(救世主)」のオークションが行われ約510億円の絵画史上最高額で落札された。この絵は16世紀にレオナルド・ダヴィンチが描いたものとされ、腰巻の惹句にあるように「13万円で買われた絵がなぜ510億円に?」という謎を著者の非常に綿密な取材と研究を基に解き明かした労作である。副題は「510億円の『傑作』に群がった欲望」

まず、最も重要なのは真贋。絵にサインは無く、レオナルド・ダヴィンチがこの絵を描いたという記録も無い。また、本人でなくダヴィンチ工房の弟子が描いたという可能性もある。そこで、
〇科学的鑑定:超精密写真、赤外線写真による調査。画材(クルミの木)や絵具を科学的に鑑定し、作成年を推定する。
〇来歴:この絵の過去の所有者を辿る。サルバトール・ムンディはキリスト像であり同名の絵画が何枚もあるため調査は困難を極める。
〇競売歴:過去の競売に於ける落札額、落札者の来歴を調べる。これも非常に困難な調査である。
〇鑑定:ある程度の情報が得られた時点で美術専門家、鑑定家、キュレーター等の意見を求める。勿論彼らの意見はバラバラである。
これ以外に過去の修復歴、保管されていた保税倉庫等々。

2005年4月、ニューヨークの美術商ロバート・サイモンとアレックス・パリッシュはニュー・オーリンズの競売でこの絵を見つけ、共同で1,175ドル(約13万円)で落札した。画面はかなり劣化しており、上塗りの痕跡もあったが、何か感じるものがあったと言う。二人はオックスフォード大学の高名なダヴィンチ研究家であるマーティン・ケンプに鑑定を依頼する。そしてケンプは数年間にわたる研究の末「この絵はレオナルド・ダヴィンチの作品に値する」と述べている。しかし疑問もあった。「『サルバトール』以外のキリストを描いたほとんどのルネサンス絵画では、たいてい赤のチュニックの上に青のローブを着用した姿が描かれている。『サルバトール・ムンディ』の救世主の衣装は刺繍の入った金色の帯で彩られているものの、青一色だ。現時点ではこの説明がつかない。」

研究と並行して2006年、絵の上塗りを全て洗浄した。素顔はかなり傷んでおり、当然修復の必要がある。二人はこの時代の絵画を修復できる専門家を探すが運良くニューヨーク在住の老婦人、ダイアン・モディスティーニが最も高い技術を持っていることを知り、彼女に依頼する。原画の破損の激しい部分は元の色、タッチが分からず、云わば原作者と修復家の合作のような状態になり、原作を台無しにしてしまう恐れもある。勿論彼女はわきまえており、修復は最小限に留めた。2008年、一回目の修復が終わる。

二人は高額で売るために、この絵がダヴィンチ作との認定を得るための戦略を練る必要がある。このため最初の修復後、親しい友人に見せて反応を探っていった。続いてメトロポリタン美術館の専門家、キュレーター、修復技術者等々。ある専門家が真筆だと言えば必ず他の専門家は否定する。全員一致はありえない。2008年5月、ついにロンドンのナショナルギャラリーにこれを持ち込んだ。ナショナルギャラリーにはダヴィンチの下絵と真贋論争が一世紀以上続く作品しかない。この事が自分らに有利に働くだろうという読みがあった。この絵のために5人の高名なダヴィンチ専門家が集まったが予想通り賛否両論であった。

この絵を購入後、鑑定、研究、調査、修復とかなりの費用が掛かかり、資金は枯渇してしまった。競売に掛けることも考えたが、ニューヨーク在住の美術商、アデルソンから「絵の売上の33%を頂く代わりに1000万ドルを先払いする。」という申し出があり、資金は何と繋がった。

資金を得た二人はこの絵がダヴィンチ作であるというお墨付きを得るためロンドン・ナショナルギャラリーに持ち込んだ。2011年11月、ここで開催されたダヴィンチ展は大変な盛況で三ヶ月間に約32万人の入場者を集めた。展示されたサルバトール・ムンディは真偽に関わる様々な反響を呼んだものの、ある程度の手応えを感じ、ニューヨークへ持ち帰った後第二回目の「創造的な」修復作業を開始した。

問題は値付けである。過去のダヴィンチ競売結果、物価、賃金の上昇率等を加味し、1億2500万ドル~2億ドルに設定した。後は誰に売るか?3人で買い手を探るうちにロシアの富豪リボロフレフが高価な美術品に興味がある事をつかみ極秘に接触したところ興味を示した。高額な美術品は仲介者を介して取引される事が常であり、業界では著名なスイス人のブーヴィエに仲介を依頼した。2013年、アデルソンを含む 3人はブーヴィェに8000万ドル(約90億円)で売却した。これをブーヴィエはリボロフレフに1億2750万ドル(約140億円)で買わせた。しかし、後にこの購入額を知ったリボロフレフはブーヴィエを詐欺罪で訴えている。これは仲介の仲介をしたサザビーズを巻き込んで訴訟合戦となったが未だ決着していない。

2017年リボロフレフはこの絵をサザビーズのモダンアートの競売に出品した。これは現在、モダンアートの収集家の方が金を持っているからという単純な理由である。19分間に渡る競り合いの末、4億ドルにサザビーズの手数料5000万ドルを加えた4億5000万ドルで落札された。

落札者は当然匿名であるが、ワシントンポストはサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子であると報じた。実際に落札したのはサウジのバドル王子だが彼は皇太子の代理人であった。この落札について皇太子にアドバイスしたのはドナルド・トランプの娘婿であるクシュナー氏で競売の2週間前にサウジを訪問している。彼はトランプの命によりイスラエルとアラブ諸国の国交という歴史的偉業のため尽力しており、既にUAEはイスラエルと国交を樹立している。

この絵は2018年9月にルーヴル・アブダビ(UAE)で公開されると発表された。2017年にオープンしたルーヴル・アブダビは世界一豪奢な美術館と言われ、本家ルーブル美術館より2037年迄ダヴィンチの「貴婦人の肖像」を含む300余の作品を13億ドルで借りる契約になっている。武漢ウィルス騒ぎが無ければ是非見に行きたかったところである。

ところが初お披露目が予定されていた二週間前にルーブル・アブダビは突然展示を取りやめると発表した。その理由は明らかにされていない。2019年になって仏ルーブル美術館は10月に開催される「レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500周年大回顧展」の為にサルマーン王子にこの絵の貸し出しを求めた。同時にサルバトールムンディに関するダヴィンチ研究書が出版され、ダイアン・モディスティーニは絵の修復に関わる情報を網羅したウェッブサイトを立ち上げた。また「フランス下院はこの絵をルーヴルで展示できるよう、高額で落札されたこの絵のために輸送と展示を保証する特別法を通過させた。」しかしながら、この絵をルーヴルで見る事は出来なかった。

著者によればこの絵は現時点に於いてサルマーン王子の手元に届いていないようだ。そして何処にあるのかも分からない。おそらくスイスの保税倉庫であろうと思われるが、確証は無い。こうしてサルバトール・ムンディは再び闇に隠れてしまった。王子がルーヴルでの展示を拒んだ理由は不明であるが、イスラム教徒である王子がキリストの像を買うという事になにか釈然としないものがあったのだろうか。また、ルーヴル美術館はルーヴルで展示すれば真贋を判定するという少々尊大なもの言いが癪にさわったのかもしれない。

高額で落札される美術品には純粋な鑑定だけでなく、闇の部分も見え隠れし、2016年に流出したパナマ文書にも課税逃れの手段として高額な美術品が利用されていた事が分かっている。また、実際の美術品の隠し場所としてスイス或はシンガポール等の保税倉庫が利用されているようで、秘密裡に取引された美術品は単に倉庫の中で移動させるだけという形もあるようだ。このような闇の部分も含め、短時間で追い込んだ著者の努力により、素晴らしいノンフィクションが出来上がった。また、本書には図版が多く、修復の前後の比較もできて読み応えがあり、たっぷり楽しませて頂きました。尚、11月21日付けの日経に書評がありましたので、張り付けておきます。