最後の社主/樋田穀著

読書のお時間

著者は朝日新聞の事件記者であったが平成19年大阪本社秘書課主査となり(サラリーマンとしては左遷?)社主である村山家のお世話をするという名目で村山家に通い、村山家の動向を把握する(スパイ?)役となった。「しかし、村山家に長く出入りするうち、次第に美知子さんの気品に溢れた人柄、自分に厳しい生き方に強く惹かれるようになった。そして社主家の重荷を背負いつづけた人生に深い共感を寄せるようにもなった。さらに、美知子さんへの朝日新聞社側の対応に、納得できない思い、もっと言えば義憤のようなような想いを抱くようになった。」

朝日新聞は村山龍平が明治12年1月15日、大阪で小新聞として創刊した。(当時は政治、経済を論じる大新聞と今のスポーツ新聞のような小新聞があった。)しかし、動きの激しい時流に乗る形で次第に政治問題を扱うようになった。当初、村山龍平は経営者では無かったが明治14年は朝日新聞の所有権を引き受け、この時から同じく経営者となった上野理一と共に出資金を3万円とし、村山と上野で2体1と配分した。その後明治28年に合名会社、明治41年に合資会社となった。大正8年、株式会社に改組され、村山家が全株式の58%、上野家が30%、幹部社員20名が12%を持ち、村山家が朝日新聞に対して強い影響力を行使する事が出来ることになった。これが社主村山家と朝日新聞経営陣との泥沼の対立の始まりである。

最後の社主となった村山美知子は大正9年、龍平の初孫として神戸市東灘区御影の村山家邸で生まれた。阪急神戸線、御影駅の東側は村山邸と香雪美術館を避けるため北方向にカーブしている。これを村山カーブと呼ぶらしい。村山邸は明治33年頃村山龍平が約1万坪の土地を購入し、明治41年3階建ての洋館と和風御殿、茶室を、又、有馬川上流の鼓ヶ滝の近くに別荘を建設した。これが呼び水となり御影周辺には当時の財界人の大邸宅が相次いで建てられた。

美知子は深窓の令嬢として育てられ、昭和8年甲南小学校を卒業後、甲南高等女学校に進学した。昭和12年4月、国産の朝日新聞社機「神風号」が東京-ロンドン間を当時最短記録の94時間で飛行した。羽田を出発する壮行式には15,000人が集まった。美知子と妹の冨美子及びシャンソン歌手の石井好子が帰国した飯沼操縦士、塚越機関士に花束を贈る写真が残っている。姉妹は世界的快挙を祝う歓迎会、祝賀会にも参加している。この快挙をラジオで知った北原白秋は「遂げたり神風」と題した詩を朝日新聞社に届け、翌日の朝日新聞に掲載された。その後、西城八十、土岐善麿、土井晩翠らの詩が朝日新聞に掲載された。この時甲南高等女学校の音楽教師がこれらの詩から好きなものに曲をつけるという課題を出した。幼少時より音楽の才能豊かであった美知子の作曲が選ばれ、山田耕作の推薦によりコロンビアレコードでレコード化された。歌ったのは戦前、ミスコロンビアとして人気のあった松原操で、数十万枚のヒットとなったらしい。蛇足ではあるが、歌詞の中の「飯沼塚越」は搭乗した二名の名前である。美知子と飯沼操縦士はその後も交際があり飯沼操縦士と美知子と結婚し、社主になる可能性もあったようだ。

昭和13年甲南高等女学校を卒業した美知子は当時東京の東久留米市に新校舎が出来たばかりの自由学園高等科(羽仁もと子校長)に進学し、寄宿舎に入った。しかし、深窓の令嬢にとって寄宿舎生活は規律も厳しく、自分で「不自由学園」と呼んでいた。遂に自由学園を中退し、呉泰次郎の音楽私塾に通い、音楽理論、作曲法、指揮法等を学んだ。美知子の父、長挙は当時朝日新聞の社長で、終戦時には終戦詔勅の玉音放送のレコード原盤を守るために尽力した事でも知られている。

昭和23年美知子は豊田貞次郎、元海軍大将の次男の武田光雄と結婚した。豊田貞次郎は近衛内閣で大臣、その後日本製鉄社長を歴任しており、その次男は社主として申し分無い家系である。しかしながら、昭和25年に協議離婚した。光雄は当時三菱電機に勤務していたが、新聞事業に興味を示さないため、社主にはなれないと見做されたためだったと言われている。

昭和27年美知子は冨美子と共にニューヨークへ行き、ヘレン・トーベルというオペラ歌手の私邸に3ヶ月滞在した。彼は朝日新聞の招聘で日本公演を行っており、その時から村山家と親密な関係が続いていた。現地では甲南小学校同級の丸紅社員の助力でコンサートやオペラを堪能した。帰国後の昭和31年、村山家にゆかりの深いロシア人のプロモーターが「『欧州の名門フェスティバルにひけを取らない音楽フェスティバルを日本でもやってみてはどうか。プロデューサーはミチ(美知子)しかいない』」と言ったのがきっかけとなって美知子は大阪国際フェスティバルの準備を開始する。(当時36歳)

美知子はその夏、有名な音楽祭の開催地であるオーストリアのザルツブルグ、ウィーンと英国のエジンバラへ出かけた。ウィーンでは将に社交界デビューと言ってもよいほど多くのパーティや舞踏会に出席し、音楽家や後援者との知己を得た。帰国後朝日新聞から好意的反応があり、本格的準備作業に取り掛かった。昭和33年朝日新聞大阪本社社屋に併設された音楽ホールが完成するのに合わせ、第一回大阪国際芸術祭が開催された。これが、今日まで続く大阪国際フェスティバルの出発点となった。招聘する音楽家との交渉は全て美知子が仕切った。当時はフェスティバルって何?と言われる時代であったが、成功裡に終わった。その後毎年、世界最高峰の音楽家を招聘した。第10回では8年間の出演交渉を経て」「バイロイト・ワグナー・フェスティバル」の引っ越し公演を実現した。カラヤン率いるベルリンハーモニー管弦楽団は第9回、13回、20回の3回公演している。特に昭和45年の第13回公演は万博の日本博覧会協会との共同主催の形になった。また新人発掘にも力を注ぎ、小澤征爾や佐渡裕は美知子の後援なしには現在の地位を得る事は無かった。長年の美知子のフェスティバルに掛ける努力に対し、フランスから、レジオン・ドヌール・オフィシエ他、3度勲章を受けている。その他にもオランダ、西ドイツ、オーストリア、スペインからも勲章を受けた。

この間、朝日新聞経営陣は社主に著者が義憤を抱くような様々な仕業をかけ続けた。昭和39年に村山龍平の息子で美知子の父である村山長挙社長が当時の広岡知男取締役らによって電撃的に社長を解任され、翌年には取締役も解任されて「社主」に祭り上げられた。これを「村山騒動」と言う。昭和52年、長挙社主が失意のうちに死去し、美知子氏が社主の座を受け継ぐと、歴代の社長は手を替え品を替え、持ち株を手放すよう説得を繰り返したが、美知子社主は頑として首を縦に振らなかった。しかし平成17年、秋山耿太郎が社長に就任したころフジテレビの経営権が奪われかけたライブドア事件があり、読売新聞の渡辺恒雄社長は朝日幹部に対し、「朝日が外資に乗っ取られるという話がある。そんな事態にならないよう、がんばってくれ」と伝えたという。焦った朝日新聞経営陣は遺言書を書かせようとしたり、朝日新聞幹部が著者に養子を探せと命令し、やっと探し出した候補者と纏ます寸前に朝日が梯子を外し、逃げた事もあった。その後、朝日新聞経営陣は高齢の美知子社主の判断能力の衰えに乗じて、懐柔し、株を奪い取った。平成26年、最後に残ったのは株式は11%のみであった。

美知子は約1年半寝たきり状態であったが、昨年3月3日永眠した。享年99。これにより村山家の持ち株はゼロになり朝日新聞の歴史を考えれば、大きな転換点となる。ここまでの経緯を著者は病床の美知子の看護婦にまでケチをつける朝日新聞経営陣のやり口を私憤をこめて記している。しかも経営陣は全て実名で書いた勇気は、それだけ憤慨したという事の証左であろう。

社主 vs. 朝日新聞の争いはこれまで色々とマスコミで報じられてきたが、私は長年愛読している週刊新潮でしばしば取り上げられたのを興味深く読んでいたが、その深層が完全には理解できていなかった。しかし著者の勇気ある告白と取材により、その全貌が良く理解できた。

朝日新聞には記事に「角度を付ける」という言葉がある。事実をそのまま報道するのではなく、自社の主張(例えば反安倍)に沿うように加工(今風に言えば印象操作)する事である。だが、これがこうじると「嘘と誤報」となる。最近では福島原発事故の際の吉田調書の内容を改竄して報道した。吉田調書は当初非公開であったが、後に公開が決まった。このため公開日の朝刊で朝日は誤報(捏造)であることを謝罪した。しかしながら、既に世界中に捏造記事が配信されており、又も南京虐殺や慰安婦の様に日本人が貶められた。

戦前、朝日は右翼的で日中戦争拡大を訴えていたが、戦後真反対の左翼新聞となった。まず、右翼紙となったのは何故か?朝日は明治、大正期、小新聞から大新聞に変容する際に、小新聞の領分を越えた記事を掲載し、何度か発禁処分を喰らっている。このため明治21年「東京進出を機に、朝日新聞社は『報道第一主義』を掲げ、以後、『公平中立な新聞』を目指すと度々表明した。」しかし、大正7年寺内正毅内閣がシベリア出兵と米騒動の報道禁止にした事に対し、報道の自由を掲げて新聞各社は反発した。特に大阪朝日新聞は強硬で、これに対し、8月26日夕刊が発禁処分とされた。朝日は他社が支持、応援してくれると考えたが、毎日新聞等は「ライバル紙を叩く好機」と捉え、朝日は孤立無援となった。その後9月25日の初公判に於いて廃刊が求められたが廃刊を避ける為村山社長を始め、東京朝日、大阪朝日の幹部社員50名が辞任した。廃刊は免れたが編集・発行人と記者が禁固二箇月の実刑となった。これを「白虹事件」と言う。この事件で引責辞任した村山龍平は大正8年株式会社に改組した朝日新聞社の社長に復帰した。研究者によればこの事件を契機に朝日は大きく右旋回したようだ。

戦後はGHQの検閲で昭和20年9月15日と17日の二日間の業務停止命令を受けた。「正義は力なり、を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」という鳩山一郎の談話等が掲載されたためである。GHQの検閲については江藤淳の研究に詳しいが、これ以降恐れをなした朝日は大幅な左旋回を図り、GHQのWGIP (War Guilt Information Program)や旧コミンテルンの援助を受けて日本を貶める方向に突き進み現在に至っている。

遂げたり神風 作詞:北原白秋 作曲:村山美知子