蕎麦湯が来ない/せきしろx又吉直樹著

読書のお時間

「蕎麦湯が来ない」というのはどういう状況であろうか?少し考えてみた。

僕は夕刊フジを買って駅のそばの蕎麦屋に飛び込む。席に着くとバイトのオネーチャンがだるそうに「ぃらっしゃいませ」と言いながら水を持ってくる。そのグラスがテーブルに乗るやいなや紙面から目を離さず「おおもり!」と叫ぶ。自分としてはハードボイルドに決まったつもり。しかしオネーチャンは席から離れず「あのー」と言う。左目だけで彼女を見る。「すいません、何の大盛でしょうか?」。(アホか!蕎麦屋でおおもり、と言えばきまってるだろうが)と言いたいところをぐっと呑みこみ、やさしく「盛そばの大盛」と答える。暫くして誂えた蕎麦が来る。蕎麦猪口にワサビとネギを放り込むのはルーティンであるが、問題は七味唐辛子。蕎麦つゆに七味を入れるのは本寸法では無い気がするが、迷ったあげく二振り、三振り。蕎麦はぐっとたぐって三分の一位をツユに浸し、ズルズルっと一気にすする。本音はタップリつゆをくぐらせたいところであるが、ここは痩せ我慢。(自分なりに)カッコよく食べ終わり、水を一口飲み夕刊フジを読み続ける。しかし、蕎麦湯が来ない。心を落ち着けさせてエロ記事なんかを読み進む。しかし、蕎麦湯が来ない。オネーチャンを呼ぼうか、しかし蕎麦湯ごときでハードボイルドな僕が大声を上げるのはカッコ悪い。このまま出るか?しかし、蕎麦屋に来た以上、蕎麦湯を飲んで、爪楊枝でシーハーしたい。しかし、蕎麦湯が来ない。いったい、どうすれば良いのか、僕は途方にくれる。

本書は週刊文春に書評があり、書評子(穂村弘)も同様の思いがあるようだ。

「『蕎麦湯が来ない』というタイトルが面白い。蕎麦湯が来るタイミングとは、いつも微妙なものだ。早すぎると落ち着かないし、食べ終わって待っていると、今度はその時間が妙に長く感じられる。催促すべきか、もう少し待つべきか。そもそもあれは商品の一部なのか、それとも好意をによるサービスなのか。」

本書はせきしろと又吉直樹のエッセーと自由律俳句が収録されている。自由律俳句とは五七五にとらわれない俳句で種田山頭火が思い出される。俳句というと落語で覚えた川柳か、プレバト位しか私には馴染みがない。しかし、このお二人の自由律俳句はそれらと違ってどれも何故かトホホ感が滲んでいる。エッセイには日常の些細な出来事が綴られており、共感するところも多い。エッセイから察するにお二人とも似たような性格で、芸人としての又吉のあの感じである。少しミスターオクレを思い出す。

もしタイトルが「蕎麦湯が来ない」でなかったら、この本は買わなかったと思う。以前、時々レコードのジャケ買いをした事を思い出す。演奏者も内容も知らないが、ジャケットが素晴らしいからつい買ってしまう。経験上ジャケットの良いレコードは内容も良いものが多い。しかし、本をタイトルで買ったのは初めてだと思う。実際に蕎麦湯が来ないというトホホな経験があるから、冒頭のような妄想が浮かんでしまう。マガジンハウスの編集者に上手く乗せられてしまったようだ。