パノニカ/ハナ・ロスチャイルド著 小田中裕次訳

1950,60年代のビ・バップや当時のモダン・ジャズを好きな人なら「ニカ男爵夫人」(キャサリン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド)という名前を一度は聞いたことがあるだろう。ニカはロスチャイルド家の一員で、文字通り深窓の令嬢であったが、1949年セロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に心を奪われ、1951年ニューヨークに移住した。その後、亡くなるまでセロニアス・モンクを始めとする当時のジャズメンを物心両面で支え続けた。もしニカがいなければジャズの名曲・名演の多くが生まれなかったと言っても過言ではない。

Kathleen Annie Pannonica (1913 – 88)
メキシコにて(34歳)

ロスチャイルド家の創始者であるマイアー・アムシェル (1744-1812)はドイツ・フランクフルトで唯一ユダヤ人の居住が許可された非常に狭く、汚い貧民窟で生まれ、常にキリスト教徒から差別されていた。彼はキリスト教徒の嫌がる金貸しを始め、1770年代には綿製品や穀物取引も始めた。その後10人の子供のうち、生き残った5人の息子をフランクフルト、ベニス、ロンドン、ナポリ、パリに送り出し、1820~1860年代にかけてヨーロッパにおけるロスチャイルド家の地歩を固めた。特にロンドンの二代目ネイサン・メイヤーはロスチャイルド家中興の祖であり、為替相場、債券取引市場を開設し、莫大な利益を上げた。ロスチャイルド家はその頃、既に富と権力の代名詞となっており、普仏戦争の戦費、英国のスエズ運河買収資金やポルトガルからのブラジル独立資金の調達などヨーロッパの歴史の中で数えきれない重要な役割を果たしている。また日本の日露戦争戦費調達にも関与している。余談ではあるが、彼らはフランスでワイン生産にも力を入れ、現在でもロスチャイルド(カタカナ表記でロートシルト)の名が付く高級ワインが販売されている。

ロスチャイルド家は英国とヨーロッパ各地に豪邸や城を所有していたが、ニカは英国の城で生まれた。ロスチャイルド家では男子は学校へ行くが女子は許されなかった。彼女は常に乳母、侍従、家庭教師に囲まれて過ごし、毎日規則正しい生活を送った。邸外に出ることは少なく、終日自室で過ごす事も多かった。お金を使った事も無く「一人では自分をどう世話して良いのか分からない」という生活だった。16歳になって始めて両親と夕食を共にする事を許された。フランスのシェフが高級な料理を作っていたが、一週間のメニューは決められており、余りの単調さにうんざりしたと述べている。

ニカが17歳になった夏(1930)、姉のリバティとフランス、オーストリア、ドイツ へお供を引き連れて出かけ、ヨーロッパ社交界にデビューした。現地紙は二人の動向を逐一報道した。令嬢姉妹はそれまで政治的な事を意識したことは無く、ドイツでヒトラーがユダヤ人を敵視していることをこの時初めて知った。ニカは19歳になって 良き伴侶を見つけるためロンドン社交界にデビューした。英紙、The Timesにパーティの参加者、ドレス、そのデザイナー等が連日詳報された。しかしニカは社交界で認められることに興味は無く、アメリカのジャズとミュージシャンに夢中だった。

ニカが22歳(1935)の時にロスチャイルド家親族の昼食会で出会った10歳年上のジュール・ド・コーニグズウォーター男爵に夢中になった。ジュールはニカをフランス、ドーヴィルの別荘に招待した。運転手と侍女が同行したもののニカにとっては初めての胸躍る海外一人旅であった。しかしこの時二人の相性に不安を感じたニカは姉のリバティに助言を受けるという名目で姉のいるニューヨークに向かった。真の目的はアメリカ音楽であった。当時のニューヨークはジャズだけでなく、前衛絵画、オペラ、文学と新しい波が興り、退屈なヨーロッパとは対照的であった。結局1935年9月、ニューヨークで挙式を行った。New York Timesは「億万長者ロスチャイルド家の令嬢が結婚」という見出しで詳細な記事を掲載した。

新婚旅行後彼らはパリで暮らし2人の子供を設けた。この頃ヒトラーの台頭でロスチャイルド家といえどもユダヤ人差別受けていた。1939年ジュールが出征したが、彼女はパリに留まり、パリが陥落し、独軍がパリに到着する直前迄、難民を屋敷に受け入れていた。ニカは若いころ自動車の運転と航空機の操縦を会得していたが、飛行機の油を買える状況ではなく、最後の船で多くの難民と共に英国へ帰還した。

ジュールはド・ゴールの呼びかけに応え自由フランス軍に志願した。ニカもジュールの後を追って自由フランス軍に志願した。当時は女性を兵士として前線に送る事は許されなかったが、ニカは命令を無視して夫のいるアフリカへ向かった。アフリカではマラリアに罹ったが回復し、夫との再会を果たした。現地でニカは軍人として爆撃機に搭乗していたそうだ。当時ヒトラーはユダヤ人殲滅を目指し、多くのユダヤ人を収容所に送り込んでいた。ロスチャイルド家でも何人かが収容所で殺されている。著者はヒトラーの反ユダヤの目的はロスチャイルド家の殲滅だと言っている。フランスのロスチャイルド家の多くの財産、美術品はナチスとフランスビィシー政権により没収された。

戦後、夫のジュールは外交官としてノルウェーに赴任。その後メキシコが任地となり移住した。ニカと厳格な夫との結婚生活は破綻に向かっていたが、ニカはメキシコに行けばニューヨークへ出かけやすくなるだろうと考えていた。1949年ニカはニューヨークからの帰途、旧知のピアニストであるテディ・ウィルソンからセロニアス・モンクのレコードを聞かせてもらった。彼女は衝撃を受け、20回続けて聞いたという。(しかし、当時の批評家はモンクのピアノを酷評していた。) このため帰りの飛行機に乗り遅れ家には帰らなかった。。

ニカはニューヨーク・セントラルパークに接するスタンホープという高級ホテルのスィートルームに引っ越し、すぐに白いロールスロイスを買った。彼女はスピード狂で交通規則は殆ど無視していたらしい。ニカは毎日夕方に起き52通りのジャズクラブで朝までジャズを聴き、当時新進気鋭のミュージシャン、作家、画家と交流した。しかし、お目当てにセロニアスモンクを探し出せなかった。 モンクは1951年にヘロイン所持で逮捕され、その後7年間キャバレーカード(日本で言う芸人鑑札)を取上げられ、演奏が出来なかったからだ。 ニカは自分の将来を考えるため1954年にイギリスに戻り、正式な離婚手続きを進めた。

ニカが英国に戻った年にモンクがパリに来ると聞き、すぐにパリに向かった。その演奏を聞いた瞬間からニカの人生は変わった。それから28年間、ニカは人生をセロニアス・モンクに捧げた。その後ロンドンに戻り、ロンドンで最高かつ最大のロイヤル・アルバート・ホールの日曜日を6周連続で押さえた。英国の聴衆にモンクを紹介するためである。しかし、モンクのバンドメンバーは公演許可が得られず、彼女は政府や有力な地位にある知人に陳情したが無駄だった。ニカはニューヨークに戻り、その後二度と英国で暮らすことは無かった。

ニカは早速、毛皮を着て白いロールスロイスに乗り、猛スピードでモンクのいるニューヨークサンファル地区という黒人街へ向かった。モンクを迎えるとニカはホテルの部屋にピアノを置き、モンクは殆ど毎日そのピアノを弾いていた。夜はクラブでジャムセッションに参加し、終演後はミュージシャンたちをホテルに招き食事を振舞った。このホテルは人種隔離をしていたので、黒人ミュージシャンは業務用エレベータでニカの部屋に向かった。毎日の食事にも不自由していたミュージシャンにとっては夢のようなご馳走であった。

ビ・バップの創始者、或いは神様と呼ばれたアルトサックス奏者のバードことチャーリー・パーカーは1955年3月12日夜ニカの部屋を訪れた。その時既に、コカインで酷い容態であった。そして部屋のソファで息を引き取った。クリントイーストウッド監督の「バード」では往診に来た医者にも愛想よく相対し、静かに死んでいくが、実際には肝硬変と胃潰瘍の酷い痛みに襲われたいた筈だと著者は推測している。

「ジャズ界の”バップ”の王様、バードことチャーリー・パーカー、53歳、サックス奏者、は土曜日夜大金持ちであるニカの五番街にある高級マンションで死んだ、そしてそれ以降ベルビュー病院の遺体安置室に留め置かれ、月曜日の夜まで公にならなかった。」(以下略)

問題は紙面にもあるように土曜日に死んだことが月曜日に公になった事である。これについては色々な説があるが、現時点でも全てが解明されたとは言い難い。タブロイド紙はスキャンダルとして書き立てた。警察の捜査もあり、ニカはホテルから追い出される羽目となった。これを聞いたジュールは怒り狂い離婚手続きを進め、子供の親権を奪った。この事件以降ニカは孤独になったためか、ますますモンク一途となり、モンクが起こした事件の身代わりになって警察の捜査を受けた事もあった。このようにニカはモンクのみならず多くのジャズメンに献身的に支援した。本書には、その頃の興味深いエピソードが綴られている。

1970年代に入るとモンクの健康はすぐれず、演奏にも支障が出始めた。ニカは何とかモンクを助けようと色々な医師と相談し、入院もさせたが1976年7月4日が最後の演奏となった。その後入退院を繰り返し、1982年2月5日、激しい心臓発作を起こし帰らぬ人となった。モンクを失ったニカは英国に帰る事も出来た筈である。しかし、ニカはその生活を変えなかった。昼過ぎに起きだし、ベッドで新聞、雑誌を読み、音楽を聴き、夜になるジャズクラブへ行く。そんなニカもついに癌と肝炎で1988年11月30日に亡くなった。享年74。

ニカに世話になった多くのジャズメンは彼女への感謝の印として彼女にちなむ曲を作曲している。また、モンクの作曲した Round about midnight, Straight no chaser, Blue Monk, Well you needn’t, Misterioso, Panonica, Ruby my dear, Epsitrophy等は多くのジャズメンにカバーされた人気曲でモンクは作曲家として評価される場合も多い。

ニカはロスチャイルド家の第五世代、著者のハナ(1962年生)は第七世代である。著者がロスチャイルド家の一員なので、ニカの幼少期から米国に渡るまでの生活が細かく描写できている。ニカがニューヨークに渡った1951年は戦争で破壊され、暗く重苦しいヨーロッパに比べ、米国は自由闊達な天国に見えた筈である。ニカは生涯、豪奢な生活を送っていたが、ヨーロッパでは自由だけは得られなかったのだろう。

ニカが初めて聞いて衝撃を受けたセロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」

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