江戸っ子芸者一代記/中村喜春著

中村喜春(きはる)は大正2年、現在の銀座七丁目で生まれる。幼少より芸事が好きで、昭和4年16の歳に母親には猛反対されたが祖父の名妓に成れ、の一言で新橋の芸者となる。お客には外国人も多かったようで、英語ができない喜春にも通訳のいい加減さに不満があり、自分で英語を学ぼうと思った。だが芸者が学校に行くというのは当時は有り得ない。自分でも何処に行けばよいか分からない。そこで外務省観光課の田誠(田英夫の父)に英語学校を紹介してもらった。それから午前中は英語学校、午後はお稽古、夜はお座敷という忙しい毎日になったが、毎日4、5時間寝れば十分というナポレオン体質で乗り切った。勿論学校の事は内緒で朝の制服から午後は箱屋(芸者について三味線や着物の運搬等雑用全般)の半ちゃんに持ってきてもらった着物に着替えてお稽古。お座敷が終わっても今で言うアフターで寿司屋やナイトクラブ、時には吉原へ繰り出すこともあった。

女将は喜春の水揚げは地位ある方とに考えていたが、鉄道省の三土大臣が喜春を気に入ってくれていたので大臣との水揚げを段取りし、喜春に伝えた。次の晩「とんぼ」での宴会で床の間を背負っていた三土大臣が「さあこっちにおいで」と言われ隣に座った。しかし高齢ということもあり、内心「トォーンでもない」、「ジョーダンジャナイワ」と思った。宴会半ばで大臣は席を立ち、その後「喜春ちゃん、ちょっと」とお勝姐さんに呼ばれ、裏梯子を上がった初めて入る部屋に連れていかれた。そこは綺麗な六畳間で大臣がどてらを着て手酌で飲んでいた。暫くあって次の間の床に座った大臣から「さぁ、こっちにおいで」と言われたが、涙ながらに手をついて謝った。(この場面の描写は迫力がある。)大臣に恥をかかせた形になったが、大臣は喜春が英語学校に通っていると聞いてタイプライター購入資金100円を喜春の衿元に押し込み、お勝姐さんには何も言うなと言って帰って行った。翌日本家の姐さんや喜春の祖母が商品券をもって「とんぼ」の女将とお勝姐さんに詫びに行った。

昭和11年6月頃、ロシアのオペラ歌手フョードル・シャリャピンを接待するため近衛文麿の別宅「荻外荘(てきがいそう)」に呼ばれた。たまたま車を降りた玄関口で喜春を案内してくれたのが弟で音楽家の近衛秀麿。喜春はかなりの面食いで、その場で一目惚れ。そこでの宴会は盛り上がり シャリャピンもかなり満足したようだ。暫くして廊下に出て化粧を直していると秀麿氏から小さなメモを渡され「デンワ書いて」と言われた。喜春は震える手で電話番号を渡した。

翌日千疋屋でデート。その後秀麿氏は築地の「川喜」良く来るようになり、友人と自宅に遊びに行くこともあった。3人子供がいたが、奥様とは別居中。喜春は有頂天で、毎日お互いに電話を掛け合っていた。その後二人で横浜、熱海や日光の旅館に偽名で泊まった。喜春は洋装だったのでバレなかったようだ。そこまでは理解できるが、なんと二人で北海道へ行ったという。当時銀座から北海道へ行くのは大旅行だった筈。北海道では登別の旅館の夕食時に警官が踏み込んできて誰何されたが、秀麿が貴族院議員のパスを見せると警官は平身低頭して逃げ去ったという。

その秀麿氏がヨーロッパへ行くことになった。出発後半年くらいしてベルリンから秀麿の指揮するオーケストラの録音がラジオ放送された際、彼のスピーチがあり、その中に二人だけに分かる暗号を入れて話してくれて感激。毎日のように手紙の往復が続いた。二年して彼は帰国したが、しばらくして今度はヨーロッパ経由でニューヨーク赴任が決まった。彼は喜春を連れて行こうと考え学習院の学友であり、ニューヨーク総領事に内定していた本野盛一子爵に相談した。勿論本野子爵もお座敷での喜春を知ってる。しかし祖母も母も大反対。

このため大野子爵は祖母と母を説得するため、わざわざ会ってくれたそうです。その三日後喜春は、お兄様(近衛文麿首相)に呼ばれた。なんと祖母と母が事前に首相に面会し、喜春に洋行を止めるよう説得を頼んだというのです。そのため首相から諄々と説得され、ついに諦めてしまいました。「私の祖母や母にしたら、せっかく売り出しきたところなのに、アメリカなんかへ行くなんて、ということなのです。(中略)かれは1週間もしないうちにヨーロッパに行ってしまいました。それっきり数年して戦争になり、大切な大切なあたしのロマンスはこっぱみじんになってしまいました。」

その後時局柄色々と嫌な事もあり、芸者を止めて嫁に行こうと考え始める。六義園でのメキシコ使節団接遇に通訳として呼ばれた喜春はそこで会った外務省の若い役人である太田一雄と相思相愛の中となり、結婚を決意する。祝言もそこそこに彼の任地であるカルカッタの総領事館に向かうため横浜から出航。そのインドでも色々あったようです。

喜春は1956年からニューヨークで暮らしており、一時帰国した際にNHK朝ドラ「おはなはん」の作者で旧知の仲である林謙一から「喜春ちゃん今度帰ってきたら『喜春』ってのを書くよ。『おはなはん』よりもっと色っぽく面白くなるぞ」と言ってくれたのですが、それからニューヨークに戻って8年も帰国しなかったので、林謙一は亡くなってしまいました。「だから喜春ちゃんは自分で書いたんです。」 その後離婚し、晩年はニューヨークで一人暮らし。平成16年、ニューヨークの自宅で没

芸者というと京都が思い出され、江戸、東京では花魁に係る話の方が多い。それで「江戸っ子芸者」という題を付けたのかも知れません。この本は当時の新橋芸者衆の日常、お座敷、恋愛等々を、全部を紹介できませんが 本人で無ければ書きえない面白いエピソード満載です。何しろ近衛文麿をはじめ当時の有名人の名前が次々出てきます。政財界、文人墨客と知己を得る上にお座敷に呼ばれた落語家、講釈師の噺を聞けたという役得もありました。こんな話を読むと、この頃新橋の料亭で遊んでみたかったとしみじみ思う次第であります。尚、本書は昭和60年に出版され、現在は草思社文庫になっています。

下の地図は文庫本に挿入された昭和初期の銀座界隈です。(地図が小さく見にくいと思いますが、連絡いただければ大判をお送りします。)下の図の真中、築地川沿いに新橋演舞場があり、その西に昭和の料亭政治の大舞台だった「金田中(かねたなか)」があります。ここは今でも一見さんお断りです。図面の一番下「とんぼ」の左隣にあるのが芥川賞/直木賞選考会場の「新喜楽」です。近衛秀麿氏が通ったのは図面の右下、築地小学校の対面の「川喜」。私は新橋演舞場はす向かいの「花蝶」に一度行った事があります。有名な料亭でしたが、今は広間にテーブルを置いて和食レストランのようになっていました。

昭和初期の銀座界隈