MC Blues, 新橋小唄/中村喜春と小唄メッセンジャーズ

前回紹介した「江戸っ子芸者一代記」の著者、中村喜春姐さんがニューヨーク在住の日本人ミュージシャンと共に歌った小唄とジャズの共演です。グループ名は当時モ-ニンやブルースマーチの大ヒットがあるアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズのもぢりだと思われます。録音日は不明ですが、昭和60年頃でしょうか。

冒頭”MC Blues”と称して姐さんの語りが入っています。東京の由緒ある地名が破壊されてくのを憂えていますが、全く同感です。現在神田の地名を復元しようという動きがありますが、小池都知事は何とかしれくれないものでしょうか?

和風楽曲とジャズの合作は色々あり、アメリカ人は結構喜ぶんですが、日本人が聞くと何か今市のトホホ感があります。本音をいうと姐さんの三味線で小唄とか都々逸を聞いてみたかった気がします。

トホホ度 ★★★
お笑い度 ★★
意味不明度 ★★

江戸っ子芸者一代記/中村喜春著

中村喜春(きはる)は大正2年、現在の銀座七丁目で生まれる。幼少より芸事が好きで、昭和4年16の歳に母親には猛反対されたが祖父の名妓に成れ、の一言で新橋の芸者となる。お客には外国人も多かったようで、英語ができない喜春にも通訳のいい加減さに不満があり、自分で英語を学ぼうと思った。だが芸者が学校に行くというのは当時は有り得ない。自分でも何処に行けばよいか分からない。そこで外務省観光課の田誠(田英夫の父)に英語学校を紹介してもらった。それから午前中は英語学校、午後はお稽古、夜はお座敷という忙しい毎日になったが、毎日4、5時間寝れば十分というナポレオン体質で乗り切った。勿論学校の事は内緒で朝の制服から午後は箱屋(芸者について三味線や着物の運搬等雑用全般)の半ちゃんに持ってきてもらった着物に着替えてお稽古。お座敷が終わっても今で言うアフターで寿司屋やナイトクラブ、時には吉原へ繰り出すこともあった。

女将は喜春の水揚げは地位ある方とに考えていたが、鉄道省の三土大臣が喜春を気に入ってくれていたので大臣との水揚げを段取りし、喜春に伝えた。次の晩「とんぼ」での宴会で床の間を背負っていた三土大臣が「さあこっちにおいで」と言われ隣に座った。しかし高齢ということもあり、内心「トォーンでもない」、「ジョーダンジャナイワ」と思った。宴会半ばで大臣は席を立ち、その後「喜春ちゃん、ちょっと」とお勝姐さんに呼ばれ、裏梯子を上がった初めて入る部屋に連れていかれた。そこは綺麗な六畳間で大臣がどてらを着て手酌で飲んでいた。暫くあって次の間の床に座った大臣から「さぁ、こっちにおいで」と言われたが、涙ながらに手をついて謝った。(この場面の描写は迫力がある。)大臣に恥をかかせた形になったが、大臣は喜春が英語学校に通っていると聞いてタイプライター購入資金100円を喜春の衿元に押し込み、お勝姐さんには何も言うなと言って帰って行った。翌日本家の姐さんや喜春の祖母が商品券をもって「とんぼ」の女将とお勝姐さんに詫びに行った。

昭和11年6月頃、ロシアのオペラ歌手フョードル・シャリャピンを接待するため近衛文麿の別宅「荻外荘(てきがいそう)」に呼ばれた。たまたま車を降りた玄関口で喜春を案内してくれたのが弟で音楽家の近衛秀麿。喜春はかなりの面食いで、その場で一目惚れ。そこでの宴会は盛り上がり シャリャピンもかなり満足したようだ。暫くして廊下に出て化粧を直していると秀麿氏から小さなメモを渡され「デンワ書いて」と言われた。喜春は震える手で電話番号を渡した。

翌日千疋屋でデート。その後秀麿氏は築地の「川喜」良く来るようになり、友人と自宅に遊びに行くこともあった。3人子供がいたが、奥様とは別居中。喜春は有頂天で、毎日お互いに電話を掛け合っていた。その後二人で横浜、熱海や日光の旅館に偽名で泊まった。喜春は洋装だったのでバレなかったようだ。そこまでは理解できるが、なんと二人で北海道へ行ったという。当時銀座から北海道へ行くのは大旅行だった筈。北海道では登別の旅館の夕食時に警官が踏み込んできて誰何されたが、秀麿が貴族院議員のパスを見せると警官は平身低頭して逃げ去ったという。

その秀麿氏がヨーロッパへ行くことになった。出発後半年くらいしてベルリンから秀麿の指揮するオーケストラの録音がラジオ放送された際、彼のスピーチがあり、その中に二人だけに分かる暗号を入れて話してくれて感激。毎日のように手紙の往復が続いた。二年して彼は帰国したが、しばらくして今度はヨーロッパ経由でニューヨーク赴任が決まった。彼は喜春を連れて行こうと考え学習院の学友であり、ニューヨーク総領事に内定していた本野盛一子爵に相談した。勿論本野子爵もお座敷での喜春を知ってる。しかし祖母も母も大反対。

このため大野子爵は祖母と母を説得するため、わざわざ会ってくれたそうです。その三日後喜春は、お兄様(近衛文麿首相)に呼ばれた。なんと祖母と母が事前に首相に面会し、喜春に洋行を止めるよう説得を頼んだというのです。そのため首相から諄々と説得され、ついに諦めてしまいました。「私の祖母や母にしたら、せっかく売り出しきたところなのに、アメリカなんかへ行くなんて、ということなのです。(中略)かれは1週間もしないうちにヨーロッパに行ってしまいました。それっきり数年して戦争になり、大切な大切なあたしのロマンスはこっぱみじんになってしまいました。」

その後時局柄色々と嫌な事もあり、芸者を止めて嫁に行こうと考え始める。六義園でのメキシコ使節団接遇に通訳として呼ばれた喜春はそこで会った外務省の若い役人である太田一雄と相思相愛の中となり、結婚を決意する。祝言もそこそこに彼の任地であるカルカッタの総領事館に向かうため横浜から出航。そのインドでも色々あったようです。

喜春は1956年からニューヨークで暮らしており、一時帰国した際にNHK朝ドラ「おはなはん」の作者で旧知の仲である林謙一から「喜春ちゃん今度帰ってきたら『喜春』ってのを書くよ。『おはなはん』よりもっと色っぽく面白くなるぞ」と言ってくれたのですが、それからニューヨークに戻って8年も帰国しなかったので、林謙一は亡くなってしまいました。「だから喜春ちゃんは自分で書いたんです。」 その後離婚し、晩年はニューヨークで一人暮らし。平成16年、ニューヨークの自宅で没

芸者というと京都が思い出され、江戸、東京では花魁に係る話の方が多い。それで「江戸っ子芸者」という題を付けたのかも知れません。この本は当時の新橋芸者衆の日常、お座敷、恋愛等々を、全部を紹介できませんが 本人で無ければ書きえない面白いエピソード満載です。何しろ近衛文麿をはじめ当時の有名人の名前が次々出てきます。政財界、文人墨客と知己を得る上にお座敷に呼ばれた落語家、講釈師の噺を聞けたという役得もありました。こんな話を読むと、この頃新橋の料亭で遊んでみたかったとしみじみ思う次第であります。尚、本書は昭和60年に出版され、現在は草思社文庫になっています。

下の地図は文庫本に挿入された昭和初期の銀座界隈です。(地図が小さく見にくいと思いますが、連絡いただければ大判をお送りします。)下の図の真中、築地川沿いに新橋演舞場があり、その西に昭和の料亭政治の大舞台だった「金田中(かねたなか)」があります。ここは今でも一見さんお断りです。図面の一番下「とんぼ」の左隣にあるのが芥川賞/直木賞選考会場の「新喜楽」です。近衛秀麿氏が通ったのは図面の右下、築地小学校の対面の「川喜」。私は新橋演舞場はす向かいの「花蝶」に一度行った事があります。有名な料亭でしたが、今は広間にテーブルを置いて和食レストランのようになっていました。

昭和初期の銀座界隈

不良役者/梅宮辰夫著

梅宮辰夫が亡くなったのは令和元年12月12日。この本は奥付に「2019年12月12日第一刷発行」とある。娘のアンナが12月12日以降最初にMXTVに出た時、この本は既に印刷済みで、父にサインをしてもらうため何冊か自宅に届けられていた、と語っていた。 自身の映画俳優人生と破天荒な交遊録を口述筆記したものであるが、不謹慎ながら間に合って良かった、という気がする。腰巻の裏表紙側には「俺が役者になった目的は次の4つ。いい女を抱くこと。いい酒を飲むこと。いい車に乗ること。きれいな海が見える一等地に家を構えること。」とある。最初の3つは当然とも思えるが、4つ目はやや意外で彼の家族に対するやさしさなんだろうと思う。

小学校4年で満州から引揚げ、水戸に定住。父は開業医で大学は医学部を受けるが失敗。やむなく日大法学部入学。昭和33年、行きつけのゲイ寿司屋の勧めで受けた東映ニューフェイスに合格。当時の東映は京都撮影所での時代劇がメインで東京撮影所は添え物とも言われた現代劇。しかし大スターの多い時代劇俳優になろうという気はなく、ひたすら役者になった目的を追い求めて東京で現代劇を演じることにした。

そのころは毎晩銀座へ行く。当時、銀座には日活の石原裕次郎、小林旭、大映の勝新太郎、田宮二郎等の大スターが闊歩していた。しかし高倉健は酒を飲まず、鶴田浩二は倹約家とあって、東映のスターは余り出てこない。そこで、自分は東映の看板を背負って銀座のクラブに通った。勿論役者になった目的を達成するためだ。当時は今のように気の効いたホテルは無く、店がハネた後は女のアパートに行き、まず冷蔵庫の中を見る。新鮮な食品が揃い、飲物や調味料が整然と整理されていればよし、そうでなければ「評価の対象外」だった。

不良番長シリーズが当たり仁義なき戦いの頃は一本当たり数百万のギャラを稼ぐ。当然のように銀座でモテまくり複数の女性と付合うのは当り前。不良番長シリーズを撮っていた頃、新人女優の芸名を頼まれ、考えた末に当時一番気に入っていた銀座ホステスの源氏名を付けた。すると本人が何かお礼がしたいと言う。そこで一回寝たら数日後股間がやばい。その話を聞いた山城新伍が俺もやばいと言う。例の新人女優を抱いたらしい。「えっ?なんでおまえがヤッたんだよ」と問い詰めると、迫ってみたがラチがあかず「君の芸名は俺と辰ちゃんが一緒に考えたんだよ」という嘘でなんとかなったらしい。「もちろん俺も新伍も映画のゴッドファーザーのように、その新人女優の面倒を生涯にわたって見たわけじゃない(笑)」

昭和43年クラブ「姫」のホステスと結婚したが、半年で離婚。その後銀座の有名クラブに居たクラウディアを菅原文太から紹介され、美人で気立てもスタイルも良くすっかり気に入ってしまった。しかしホステスとは以前失敗していることもあり、母親は結婚に反対し絶対に見合いをさせると言う。仕方なく3年付き合ったクラウディアに見合いをすることになったので別れてくれと言うと「二号さんで良いから分かれないで。一週間に一度でもいい。会ってくれさえすれば良い。」彼女の言葉に胸を打たれ結婚したいと両親を説得するが猛反対。仕方なく家を出て彼女のアパートで同棲生活。この時アンナを身ごもる。これがスポーツ・ニッポンに素っ破抜かれ、昭和47年に結婚した。

梅宮は何度もガンに犯されており、その都度克服してきた。そのためか クラウディア と結婚すると夜の遊びはプッツリと止め撮影が終わると真っすぐ帰宅する毎日を送っていた。妻と娘との時間を大切にしたかったのだろう。「前略おふくろ様」の撮影の頃、銀座の京料理の板長から板前の手捌きを習うにつれて料理に興味が湧き、晩年は毎日5時半に起きてアンナの弁当を作っていた。

昭和の時代の映画スターの破天荒な暮らしぶり、エピソード満載で面白い。本人以外にも勝新太郎、若山富三郎、高倉健、山城新伍、松方弘樹、菅原文太等々の横顔が見える。特に高倉健の包茎話は初出であろう。 そんな映画スターが輝いていた時代の真っ只中で思い切り演じ、遊んだ梅宮は役者になる目的を全て実現したように思われる。しかし、アンナについてだけは自分の躾云々と悔恨の気持ちが見てとれた。