そんなもんだよ しょうがない/昭和のいるこいる

最近、本に関する投稿が多く、このブログ本来の「あなたをトホホと言わせたい」という趣旨から少々逸脱しているのかな、という気もします。そこで、トホホと言わせてくれそうなのいるこいるを取上げてみました。

この前、久々に「エンタの神様」を見た。しかし、なんか面白くない。この番組が始まった頃は腹を抱えて呵々大笑だったんですが、歳のせいでしょうか?最近は前にも言ったかもしれませんが、顔半分でハハんと笑える半笑い位が丁度良い気がしており、余りアクションや衣装や奇声の激しいコントは疲れる感じもあります。やはりしゃべくり漫才が安心です。

この歌は最近「先生」と呼ばれている高田文夫の作詞です。先生は結構色々作詞をしており、今度高田文夫作詞曲を特集してみたいと思います。この歌は歌詞はまあまあですが、玉置浩二の作曲が今市の感じがあります。その次はのいるこいる35周年の記念漫才です。彼らの漫才は常に全く同じパターンで安心して聞けます。マンネリの効用でしょうか。

 

トホホ度 ★★★★
お笑い度 ★★★
意味不明度 ★★☆
(1)そんなもんだよしょうがない 作詞:高田文夫 作曲:玉置浩二
(2)昭和のいるこいる 35周年記念漫才

映画「グリーン・ブック」のドン・シェリー

この映画はアカデミー賞を受賞したこともあり、ご覧になった方は多いと思います。黒人で金も教養もあり礼儀正しいピアニストのドン・シェリーがイタリア系白人で金も教養も無いが腕っぷしだけは自信のあるトニー・リップを当時 (1962) 未だ人種差別のきつかった南部への楽旅の為に運転手兼用心棒として雇います。南部の都市を演奏して回ると予想通り種々の差別にあいトニーが体を張ってドンを守りました。そんなドタバタの中で二人がお互いを徐々に認め合うという良いお話で、このストーリーは実話だそうです。尚、グリーンブックというのは当時黒人が宿泊できるホテルや黒人が入られるレストラン等を纏めたガイドブックのようなものです。


Tony Lip (運転手兼用心棒)と Don Shirley(ピアニスト)

ドン・シェリー(1927 – 2013)はジャマイカのキングストンに生まれ9歳の時に招待によりレニングラード音楽学院に留学しています。1945年にボストン・ポップス・オーケストラに招かれ演奏活動を開始しましたが当時のクラシックファンは黒人が舞台で演奏する事を受け入れず、ついに彼は挫折してしまいます。このため1953年にクラシックを諦め、黒人でも受け入れてくれるポピュラー、ジャズ音楽へ転向しました。

私は彼をこの映画で初めて知ったので音を探してみました。このCDは彼の”Don Shirley Piano (1959)”と”Don Shirley Trio (1960)”という二枚のLPを一枚のCDに纏めたものです。前者は一曲ごとに趣向を凝らしてはいますがジャズを弾くという意欲が少々空回りしている感じがします。後者は無理をせず素直にベースとチェロに合わせて歌いあげており、前者とは★一つの差がある感じです。南部への楽旅は1962年ですから、多分クラシック以外の演奏においても自己を確立し、自信も出てきた頃ではないでしょうか。そんな時に実際に差別を受けた彼の落胆は映画にも出てきますが、かなりのものだったと思われます。

ジャズのピアノトリオの始まりは戦後で当初はピアノ、ベース、ギターでした(例えばナット・キング・コールトリオ) が後にピアノ、ベース、ドラムスという編成が標準になります。しかし”Don Shirley Trio” ではピアノ、ベース、チェロになっています。やはりクラシックの人なので自身で編曲しやすいようギターの代わりにチェロを使ったのではないかと思われます。

このCDから二曲選んでみます。まず”Tribute To Billie Holiday”です。ビリーホリディが歌っていた ”Travelin’ Light” – “Don’t Explain” – “Easy Living” – “God Bless The Child”をメドレーで演奏しています。ビリーホリディへのトリビュートというとマル・ウォルドロンの”Left Alone”が有名ですが本曲はレフト・アローンの様に泣きまくらず、堂々と彼女へ語り掛けるようなリスペクトが聞き取れます。また、このメドレーの選曲がニクイ。彼女の一生を彼女が得意としていた歌をつないで表現しています。次は”By Myself”という小品です。一人になって自分だけ、という感情を非常にやさしいタッチで弾いています。

(1) Tribute to Billy Holiday
(2) By Myself

この命、義に捧ぐ/門田隆将著

一読三嘆、事実は小説より奇なり。
以前仕事の関係で台湾海峡の地図を眺めていた時に、中国福建省厦門(アモイ)の沖2~3㎞の金門島が台湾領である事を知った。恥ずかしながら何故かは分からなかった。しかし、本書には金門島が台湾を守った。そして金門島を旧陸軍根本博中将が守ったという驚愕の事実があった。

根本博は元日本陸軍北志那方面軍司令官であった。8月15日の玉音放送の後、武装解除の命令が出たが拒絶した。上官の命令は絶対であり、従わないのは重大な軍紀違反である。しかし根本中将は内蒙古の在留邦人の命を救うため終戦後もソ連軍と激戦を展開し現地の軍人軍属、その家族約4万人を日本に引揚げさせた。一方、満州の関東軍は武装解除したため日本軍が遺棄した武器をソ連軍が接収し、その武器で多くの日本兵が殺され、シベリア抑留の憂目に逢った。

ソ連軍の侵攻を食止め、邦人救出に尽力する根本を、それまで敵であった国民党の蒋介石総統は黙認し攻撃するどころか援助してくれる場面もあった。また蒋介石は1943年のカイロ会談でルーズベルトが日本敗戦後、天皇を処刑すべしと主張したが、頑として反対した。後年この二つに根本は非常な恩義を感じたと語っている。

戦後、蒋介石が率いる国民党と毛沢東の共産党との国共内戦が勃発し、国民党は敗走を重ねた。当時、日本にも何とか国民党を助け、中国が共産化するのを防ぎたいという人士があり、根本自身もそう思っていた。そこで根本を現地に派遣する事で纏まった。しかし当時の占領下では日本人が外国に行くには密航しかない。よって台湾人や日本人の有志が台湾密航のため、金策に走るが思うように資金が集まらない。しかし時間がないので根本は家族には釣りに行くと言って 釣り竿とほんの少しの身の回りの品を持って鶴川の自宅を出た。

当初博多からの予定であったが、船の調達が上手く行かず、急遽宮崎からの出航になった。船といってもオンボロのポンポン船しか無い。昭和24年6月(1949)、夜陰に乗じて船出したが機関が故障したり、船底に浸水したりで、 まさしく命がけの台湾行であったが14日後無事、基隆に到着した。しかし怪しげな密入国者一団と見做され投獄される。二週間後根本の素性が知れ、四年ぶりに後蒋介石と会見出来た。

蒋介石は根本を信頼し、国共内戦の作戦参謀顧問を依頼する。その時点で国民党は上海、重慶も放棄し敗走を続け、最後の拠点は厦門のみとなった。根本は早速現地に赴き、調査を開始する。しかし当時の戦力では勝てる見込みがなく、食糧の自給も無理と判断した根本は厦門を捨て、沖合の金門島で敵を迎え撃つ事にした。厦門での抵抗で時間を稼ぎ、その間、塹壕を掘り補給路を整備し、地元住民に塁が及ばないよう細心の注意を払った。

10月24日ついに数百隻のジャンクに分乗した約3万の共産党軍が侵攻してきた。しかし共産党軍は連戦の勝利で油断があったためか根本の作戦通り、すり鉢型の海岸に誘い込まれ、周囲から攻撃により多くの戦力を失った。また敗走できないよう塹壕に隠れていた兵隊が敵の船を焼き払った。 その後金門島は地下要塞化を完成し朝鮮戦争で米軍が台湾海峡を封鎖したため、共産党軍の海上侵攻は不可能となった。暫く放火が飛び交ったが金門島と台湾は守られた。

根本が台湾に渡った事はGHQの知る事となり当時の国会でも取り上げられた。また戦後、軍人への反感が強まっていた新聞、雑誌がかなりのバッシングを行った。世間の厳しい目に晒された留守家族には、このためか何の保証も、援助もされなかった。

三年後根本は帰国した。羽田空港で航空機から降り立った時の写真が残っているが、右手にはしっかり釣竿が握られていた。羽田での記者会見で「終戦時百万の将兵を無事帰国させて下さった蒋介石総統に日本人の一人として万分の一の恩返しをした。」と語った。また現地では助言はしたが「前線に出て部隊の指揮をとったりしたことはない。」とはぐらかし金門島戦には一切ふれていない。確かに根本は作戦を立案したが部隊を指揮したのは国民党軍の将校であった。

平成21年(2009)この地で戦役60周年記念式典が開催されたが当時の馬英九総統は根本の貢献に言及しなかった。かつての敵国である日本人の手助けを得て国民党軍が勝利したとは言えない面子があったからだと思われる。 このように殆ど抹殺されかけていた根本の事績を大変な調査、取材活動を重ね、記録に留めてくれた著者には頭が下がる思いがする。是非本書の一読をお勧めする。(第19回山本七平賞受賞)

ジャニー喜多川異聞

いささか旧聞に属する話となった感がありますが、7月9日にジャニー喜多川さんがお亡くなりになしました。享年87。その後彼の生涯、ジャニーズ事務所の功罪について色々なマスコミが饒舌に語っていましたが、どれも同じような話でした。しかし、一番笑えたのは高田文夫です。高田文夫は元来放送作家ですが、TV、ラジオで活躍しており、また立川談志の弟子となって立川藤志楼(トーシロー)で高座を務めCDも出しています。

高田文夫は2012年に心臓が止まり生死の境をさまよったが、7ヶ月間の闘病生活を経て奇跡的に復帰。止まった心臓を手術して生き返り、70になっても、これだけのスピードでギャグを撒き散らす人はまずいません。 高田文夫は今が最盛期と言う人がいますが、我誠に同感ナリ。 余談ではありますが「ラジオビバリー昼ズ」で高田文夫が心臓病で入院した事を報じた直後に掛かった曲が桑江知子の「私のハートはストップモーション」。さすがニッポン放送です。

ジャニーズは代々木にあった米軍のワシントンハイツ(後の東京五輪選手村)の内側に居たジャニー喜多川が少年野球チームを作り、そのチーム名をジャニーズにしたところから始まる、というのは誰もが知っている話でですが、なんとその現場に高田文夫がいたそうな。詳しくは音を聞いてください。

令和元年7月12日 ラジオビバリー昼ズ
(高田文夫 、松村邦洋、磯山さやか)

世間でジャニーさんの話題が蔓延しているのを見聞きし、俺もとばかりジャニーさんとの出会いを田淵幸一が松村邦洋に語ったそうです。これを松村が翌週(7月19日)の「ラジオビバリー昼ズ」で披露しています。 彼によれば田淵幸一のバッティングを最初に評価し、芸能界でなく野球を勧めたのはジャニーさんという事になります。

ところで、松村邦洋は山口県の田布施高校を留年するほど勉強が出来なかったにも関わらず、野球と芸能界の知識は端倪すべからざるものがある。林家ぺー、パー子夫妻が芸能人の誕生日を殆ど記憶しており、これもすごいとは思われるが松村とはレベルが違うようだ。


令和元年7月19日 ラジオビバリー昼ズ
(高田文夫、松村邦洋、磯山さやか)

ジャニーズの楽曲についても、あちこちでジャニーズ特集が放送されました。その中ではやはりクリス松村の「いい音楽あります」です。(このダサいタイトルなんとかなりませんかね)。曲はジャニーズ(真矢ひろみ、飯野おさみ、中谷良、あおい輝彦)のライブ音源で、超レア。勿論初めて聞きました。当時ジャニーさんがブロードウェイ的なミュージカルを目指していた事が分かります。3曲目はブルーコメッツとの共演で、これも珍しい音です。

令和元年7月14日 クリス松村の「いい音楽あります」