大阪的/井上章一著

井上章一氏には京都に関する著作が色々ありますが、前作「京都ぎらい」は今市でした。今度は方向を変えて大阪です。一般に大阪人は
(1)いつも面白いことを言って笑っている。
(2)阪神タイガースのファン
(3)エロい
(4)食いだおれ
(5)がめつい
等と言われています。

(1)いつも面白いことを言って笑っている。
関東大震災後、谷崎潤一郎は阪神間に居を構えた。そこで昭和7年に「私の見た大阪及び大阪人」という随筆を残している。「関西の婦人は凡べて(中略)言葉少なく、婉曲に心持を表現する。それが東京に比べて品よくも聞こえ、非常に色気がある。(中略)猥談などをしていても、上方の女はそれを品よくほのめかしていう術を知っている。東京語だとどうしても露骨になる。」

現在の大阪のおばちゃんとはかなり違います。最も谷崎が座談を交わしたのは阪神間の山手婦人だったのでこういう感想になったのかもしれません。大阪のご婦人方が変わったのはテレビ大阪で昭和58年から10年間続いた「まいどワイド30分」という夕方のワイドショーから。夕餉の買い物に来ているおばちゃん達を映し、色々と喋らせた。在阪のテレビ局は有名な俳優や芸人を呼ぶには予算が足りず、素人をテレビに出すことを考えたという訳です。その後「夫婦善哉」「新婚さんいらっしゃい」「プロポーズ大作戦」等、様々な低予算の「視聴者参加番組」が製作された。勿論素人を出すと言っても事前に予選を行い、おもろい事を言える素人を選んで使っています。こんな番組を連日連夜見せられた大阪人は素人でも笑いをとらなきゃいけないと思い込み、日常生活にお笑いを持ち込み、現在に至る。(これは著者の仮説です。)

(2) 阪神タイガースのファン
阪神タイガースが戦後初めて優勝したのは甲子園球場での昭和37年10月3日の広島戦。甲子園球場は大変な騒ぎだったと思われますが、観衆は2万人と発表されています。しかし当時の映像を見るととてもそれだけ入ったとは思えません。それに比べ巨人阪神戦は常に4万人を超えていました。テレビの野球中継は巨人戦ばかりで当時は巨人ファンが多かったようです。

昭和43年に神戸でサンテレビが開局しました。しかし資金力が無いので苦肉の策として放送権料の安い阪神戦の全試合中継を始めた。これがKBSや他の民放にも広がり、これ以降多くの大阪人が阪神ファンになったようです。熱狂的な阪神ファンも実は意外に歴史が浅いんですねぇ。

(3) エロい
ここで著者はノーパン喫茶について熱く語っている。一般にノーパン喫茶は大阪発祥と言われているが実は京都なんだと。昭和54、5年頃京都西賀茂で第一号店が営業開始し、昭和55年の週刊プレイボーイにルポとして取り上げられている。ノーパン喫茶といえば大阪の「あべのスキャンダル」が有名だが、それはもっと後の話。私がちゃんと見ているんだから間違いない。ストリップも大阪と思われるが、これはご承知の通り浅草が始まり。

昭和60年に悪名高い新風営法が発効し、法の網目をくぐって、ありとあらゆる助平な店が大阪に出現する。しかし著者よれば、殆どの助平商売は東京人がアイデアを出し、大阪に出店したそうです。著者は大阪がエロい街というのは風評であって事実でないと力説しております。

(4) 食いだおれ
大阪は食いだおれ、京都は着だおれ、と言われてきた。しかし京都の和食が世界遺産になったこともあり、大阪の企業が接待に使うのは京都の料亭。それに比べ大阪名物はホルモン焼きかタコ焼き。著者は悔しそうです。「あんまりやと思いませんか。京都に来たら料亭の湯豆腐やのに、大阪ではタコ焼き。みんなどんだけ大阪をみくびってんねんって、そう思いますよ。」

本来大阪は商都で、新鮮な食材も豊富に入ってくる。だからこそ食いだおれと言われるほど、旨いものが沢山あった。昔は「あそこの料理おいしいやろ。板前さん、大阪で修業しはったんやて。」などという会話が実際にあったそうです。ああそれなのに。

(5)がめつい
「がめつい」という言葉は昭和34年に初演された「がめつい奴」(菊田一夫作)が発祥で、それ以前にはこんな言葉はなかったとは知りませんでした。その後、花登筺作のドラマ「土性っ骨」「売らいでか!」「どてらい男」が銭に執着する大阪商人のド根性を全国に流布した。これに対し、田辺聖子は「大阪人というと、金と物欲のことしか考えていないように世間は思うが、それは安モノの大阪弁小説が、一時氾濫したせいで(後略)」言うまでもなく安モノとは花登筺を指しています。

これら以外にも大阪弁や阪急沿線美人、ビリケンさん、くいだおれ太郎、或いは大阪の歴史等々について語っています。世間に誤解されている大阪人像を正したいという著者の大阪愛が溢れる一冊でした。蛇足ですが「大阪的」というタイトルはどうでしょう?もう少し工夫できたように思います。

ハッピーじゃないか/笠井紀美子&デューク・エイセス

NHKの朝ドラ「まんぷく」はカップヌードルの開発が佳境に入り、いよいよラストスパートです。カップヌードルはドラマの中でもあるように確かに画期的な商品でした。チキンラーメンが30円の時にカップヌードルは100円という強気の値付けでしたが、昭和47年のあさま山荘事件で機動隊を指揮した佐々 淳行が現場に持込み、機動隊員が食べている場面が全国に中継されました。これをきっかけに売り上げが急増したそうです。

この曲は小林亜星作曲、 阿久悠作詞の初代カップヌードルCMソングです。(CMなのでジャケ写はありません。ハービー・ハンコックと共演した “Butterfly” のジャケットを張付けてみました。) 歌っているのは当時新進気鋭のジャズ歌手、笠井紀美子 で歌い方からファッションまで最先端でした。国内だけでなく、しばしばニューヨークで当時の世界的ジャズメンと共演しており、当時を代表するジャズ歌手と云えます。今風に言えば物凄いオーラがあり、ちょっと近づくのも怖いような、そんな笠井がラーメンのCMをやっていると知って驚いたものです。

この曲は小林亜星のアレンジが今市です。笠井はジャズ歌手らしいソウルフルな歌い方を指向しているようですが、バックと上手くマッチしていません。運よくYOUTUBEに当時の画像がありましたのでリンクしてみました。今みるとやはり時代を感じます。

伯爵夫人/蓮實重彦著

蓮見重彦は元東大総長という事もあり、書店に並んでいる著作にはなんとなく近寄りがたい雰囲気があった。本作は三島由紀夫賞を受賞したが、その記者会見が話題になった。受賞の感想を聞かれ「 まったく喜んではおりません。はた迷惑な話だと思っております。」とか、ありがちな質問に「 あの、馬鹿な質問はやめていただけますか。 」などと不勉強な記者を煙にまいたが「受賞がはた迷惑なら断れば良いと思われるが」という質問には「答えられません」と返答している。この問答は面白いと思っていたが最近文庫本になったので、買ってみた。

帝大法科受験前の旧制高校生である二朗は聖林の映画を見た帰りに二朗の家に仮寓してる伯爵夫人に逢う。憲兵が来たので誰何されぬように木の陰で抱擁してやりすごす。その時二朗が汚してしまったパンツを洗うため、伯爵夫人の手引きで帝国ホテルに入る。開戦前夜の暗い雰囲気の中で二朗は伯爵夫人やその他の知人とホテルの色んな所で色んな事を経験した。 翌朝帰宅し、夕方5時過ぎに目を覚ますと夕刊で日米開戦を知る。目が覚めてみると一昼夜の夢であったようだ。色々な描写で直截な用語が随所に現れる。引用しようかとも思ったが、やっぱりやめときます。文芸評論家や文学の先生方には色々な解釈、分析があるんでしょうが私レベルでは所謂ひとつのポルノ小説です。

著者は三島賞受賞会見で「この小説は、私が書いたものの中では、一番女性に評判がいいものなんです。私は細かいことは分かりませんが、たぶん今日の選考委員の方々の中でも女性が推してくださったと私は信じています。 」と語っている。「はた迷惑」と言ったものの実は受賞を喜んでいるんぢゃあないでしょうか。もし、これが映画化されるなら是非見たいですが、著者が映画の専門家であり、色々と注文を付けられたり、批判されたりするのは必定なので、手を挙げる監督はいないでしょう。

本書は巻末に三篇の解説がある。著者の一人がジャズ評論家の瀬川昌久で、解説執筆時93才であるが、いまだに元気良く評論活動を継続中です。瀬川氏からは戦前、戦後のビッグバンドジャズの系譜、戦後勃興したビバップというコンボ形式のジャズについてその著作から随分勉強させてもらいました。作中に三島由紀夫と思しき青年が出てきますが、瀬川氏は学習院から東大法科まで三島の同級で良き友人であったそうです。

著者は会見で、瀬川昌久が昭和16年12月8日にトミ-・ドーシー楽団のレコードを大きな音で聞いていたら、両親から今晩だけはおやめなさい、とたしなめられたという話を紹介し「(中略)私はその方に対する大いなる羨望を抱きまして。結局、『1941年12月8日の話を書きたいなぁ』と思っていたんですが、それが『伯爵夫人』という形で私の元に訪れたのかどうかは、自分の中ではっきりいたしません。 」と語っている。この年代の方はよく、押し入れの中でジャズレコードを聞いていたとか、自作した鉱石ラジオにかじりついて進駐軍放送を聞いた、というような話をされますが、昭和11年生まれの著者にとってみれば、自分が体感できなかった諸先輩の心情や所行に羨望したという事でしょうか?

自転車にのって/添田唖蝉坊+高田渡

NHK大河ドラマの「いだてん~東京オリムピック噺~」では金栗四三の幼馴染役で綾瀬はるかが出演している。彼女は颯爽と自転車に乗っていたが、当時女性が自転車に乗るという事はかなり裕福な家庭で育ち、かつ勇気がなければ出来ない珍しいことであった。熊本の田舎ではかなり目立ったろうと思われる。

彼女は「チリリン チリリン と 出てくるは・・」と歌いながら自転車に乗っている。これは明治の演歌師である添田唖蝉坊の歌である。私は学生時代、添田唖蝉坊について調べた事があり、懐かしく思えた。そこで、そのオリジナル音源を探してみたが、ありそうで無い。仕方がないので高田渡のアルバム「ごあいさつ」に収録されている「自転車にのって」をリンクした。この曲は前半に添田唖蝉坊の歌があり、それに続けて高田渡が自作の「自転車にのって」を歌っている。

この歌は演歌師の神長瞭月(かみなが りょうげつ)が明治42年に流行らせた「ハイカラソング」の一節であると言われている。残念ながら神長のオリジナル音源も探し出すことはできなかったが唖蝉坊の歌からも当時の雰囲気が伝わってくる。これ以外にも唖蝉坊の歌は色々なフォーク歌手が取り上げているが、その中では、やはり高田渡がぴったりとはまっている。

〽チリリン チリリン と
出てくるは 自転車乗りの 時間借り
曲乗りなんぞと 生意気に
両の手離した しゃれ男
あっちいっちゃあぶないよ
こっちいっちゃあぶないよ
それあぶないと言っている間に
転がり落っこった  

(当時、自転車は高価だったので、時間借りで乗る人も多かった。)

添田知道は添田唖蝉坊の長男で戦後「演歌の明治大正史」や「日本春歌考」等の著作がある。こういう本をゆっくり読んでみたい気がする。

【蛇足】演歌は「演説する歌」という意味であるが、最近は「艶歌」と書かれる事が多く、演説とは関係なくなっている。これは「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と目から火を噴いて叱るチコちゃんによれば昭和41年の五木寛之の小説「艶歌」がベストセラーとなり、それから「艶歌」という表記が定着したそうです。