26文字のラブレター/遊泳舎編、いとうあつき絵

都都逸は 7・7・7・5 の26文字が基本であるが、中には8・7・8・5の字余り、或いは頭に5を付けた5・ 7・7・7・5 もある。要は自然に歌えればよく、かなり自由である。都都逸は殆どが作者不詳で江戸の昔から現在まで歌い継がれている名作も多いが、そのテーマは殆どが色恋である。この本は都都逸を集めたもので、いとうあつきという人の挿絵があり、まるで絵本のようだ。都都逸の挿絵というと浮世絵や錦絵を想像するが、ここでは全く現代の日常が描かれており、スマホも登場する。

出版元の遊泳舎は新興の会社で(2018年創業)このような絵入りの綺麗な本を出している。自分には似合わないと思いつつもつい買ってしまった。以下に取り上げられている都都逸のいくつかを挙げる。

外は雨 酔いも回った さあこれからは
主(ぬし)の勇気を 待つばかり

ひとりでさしたる から傘ならば
片袖濡れよう 筈がない

諦めましたよ どう諦めた
諦めきれぬと 諦めた

痴話はいつしか ランプとともに
消えて 時計の 音ばかり

君は吉野の 千本桜 
色香よけれど 気が多い

澄んで 聞こえる 待つ夜の鐘は
こんと鳴るのが にくらしい

すねて片寄る 布団のはずれ
惚れた方から 機嫌とる

三千世界の 烏を殺し
主と朝寝が してみたい

あの人の どこがいいかと 尋ねる人に
どこが悪いと 問いかえす

思い出せとは 忘るるからよ
思い出さずに 忘れまい

落語には都都逸のみならず、狂歌、川柳が沢山あり、聞いてるときは良い文句だなと思ってもすぐ忘れて、後で思い出そうとしてもなかなか出てこなくなりました。そういう文句を集めた本があるとは思うのですが、なかなか探し出せません。見つかったらここで紹介します。

反日種族主義/李栄薫(イ・ヨンフン)編著

この本は昨年読んだ本の中で一番衝撃を受けた。前書きの次の章が「プロローグ 嘘の国」中見出しが、『嘘をつく国民』、『嘘をつく政治』、『嘘つきの学問』、『嘘の裁判』、『半日種族主義』。これは日本人が書いたのでは無く、韓国の経済学者である李栄薫の言葉である。要するに韓国人の言う事は全部嘘だと。

出だしは過激だが、それ以降はテーマ毎に冷静に、証拠に基づく事実、実証から学問的に述べている。中見出しの例を挙げると
4.日本の植民地支配の方式
5.「強制動員」の神話
7.朝鮮人の賃金差別の虚構性
12.独島 半日種族主義の最高象徴
16.ネバーエンディングストーリー「賠償!賠償!賠償!」
20.日本慰安婦問題の真実
22.韓日関係が破綻するまで―挺対協の活動史
等々。言うまでもなく、独島(竹島)は日本の領土であり、従軍慰安婦問題は朝日新聞が捏造した嘘であり、徴用工は実際には志願工であり賃金、待遇に格差は無かった事などが事実に基づいて語られてる。

逆に日本人が間違えている点も指摘されている。例えば最近「韓国が日韓基本条約(1965)があるにも関わらず更に賠償を要求するのであれば、日本が建設して韓国にそのまま残置してきたインフラ等の財産の代金を払え」という論が国内にある。しかし本書によればサンフランシスコ講和条約で日本が韓国を放棄する際、日本が建設した財産については「特別な取り扱いをする」と明記されており、 「特別な取り扱いをする」 とは 日韓基本条約にて日本が支払う賠償は賠償金と「特別な取り扱い」として現地に残したインフラ等の財産を合算すると定められており賠償交渉を通じて韓国の財産となっている。よって日本が所有権を主張する事は出来ない。また、日本の歴史学者から本書にある誤りが数点指摘されている。未だ決着がついている訳ではないが、日韓の学者同士で事実に基づき冷静に検討が進められているので、早晩決着するであろう。

韓国人の著者が韓国人は嘘つきだと言っており、文在寅政権の反日政策に真っ向から反旗を翻しているのであるから、韓国内での猛反発は当然の事として身の危険まで考える必要があるが、事実に基づく正しい歴史認識が日韓双方に芽生えなければ日韓の将来は無いという切実な思いが筆を執らせたのであろう。このような内容でありながら、韓国では20万部、日本では50万部のベストセラーとなっている。韓国の人口とGDPを勘案すれば韓国での大ベストセラーと言って良い。韓国では不景気と就職難に悩む若い層が本書を良く読んでいるようだ。

「反日種族主義」という聞きなれない言葉がタイトルになってる。この意味は長いがプロローグから引用する。「(前略)嘘が作られ拡散し、やがて文化となり、政治と司法を支配するに至った過ぎし60年間の精神史を、何と説明したらよいのでしょうか。人が嘘をつくのは、知的弁別力が低く、それに対する羞恥心がない社会では、嘘による利益が大きいためです。嘘をついても社会がそれに対して寛大であれば、嘘をつくことは集団の文化として広がっていきます。ある社会が嘘について寛大だと、その社会の底辺には、それに相応する集団の心理が長期にわたって流れるようになります。その流れているものは、一言で物質主義です。お金と地位こそが全ての幸福の根本だと言う価値観、お金と地位のためなら手段、方法を選ばない行動原理、これが物質主義です。(中略)さらに長期的かつ巨視的に物質主義の根本を追求して行くと、韓国の歴史と共に長い歴史を持つシャーマニズムにぶつかります。シャーマニズムの世界には善と悪を審判する絶対者、神は存在しません。シャーマニズムの現実は丸裸の物質主義と肉体主義です。シャーマニズムの集団は種族や部族です。種族は隣人を悪の種族とみなします。客観的議論が許容されない不変の敵対感情です。ここでは嘘が善として奨励されます。嘘は種族を結束させるトーテムの役割を果たします。韓国人の精神文化は、大きく言ってこのようなシャーマニズムに緊縛されています。より正確に表現すると反日種族主義と言えます。(後略)」

この引用は韓国民について書かれたものであるが、韓国を笑う事は出来ない。我々は正しい近現代史を教えられていない事もあり、歴史問題に関する「知的弁別力」が低くく、 戦後朝日新聞が垂れ流す嘘を頭から信じてしまい「ここでは嘘が善として奨励されます。」 そして「客観的議論が許容されない不変の敵対感情」が醸成され世界の情勢は急速に動いているにも関わらず、左翼やリベラル、保守と称される人々との間で不毛の論争が続けられている。

本書では深く触れられてはいないが、元々韓国のものという意味で「ウリジナル」という言葉がある。「ウリ」はweの意味でウリとオリジナルを合わせた造語。例えば空手は韓国で発祥したと言う。勿論嘘であり、鼻で笑って誰も相手にしなかった。しかし韓国はこの嘘をしつこくIOCに刷り込んだ。(実弾攻撃もあっただろう)。IOCは遂に篭絡されテコンドーなどという明らかに戦後(1955)発祥であるミョウなものを五輪種目にしてしまった。 東京五輪では開催国特権(?)で空手が五輪種目に採用されたが、次のパリ五輪では空手が国際的に認知され競技人口が多いにも関わらず、テコンドーのみが採用される可能性が高い。その他、茶の湯等々日本古来のものも殆どが韓国発祥と言い募っている。実に面倒であるが、これらの嘘に一つ一つ丁寧に反論していかなければ今後もテコンドーのような事態が生じる可能性がある。

江戸っ子芸者一代記/中村喜春著

中村喜春(きはる)は大正2年、現在の銀座七丁目で生まれる。幼少より芸事が好きで、昭和4年16の歳に母親には猛反対されたが祖父の名妓に成れ、の一言で新橋の芸者となる。お客には外国人も多かったようで、英語ができない喜春にも通訳のいい加減さに不満があり、自分で英語を学ぼうと思った。だが芸者が学校に行くというのは当時は有り得ない。自分でも何処に行けばよいか分からない。そこで外務省観光課の田誠(田英夫の父)に英語学校を紹介してもらった。それから午前中は英語学校、午後はお稽古、夜はお座敷という忙しい毎日になったが、毎日4、5時間寝れば十分というナポレオン体質で乗り切った。勿論学校の事は内緒で朝の制服から午後は箱屋(芸者について三味線や着物の運搬等雑用全般)の半ちゃんに持ってきてもらった着物に着替えてお稽古。お座敷が終わっても今で言うアフターで寿司屋やナイトクラブ、時には吉原へ繰り出すこともあった。

女将は喜春の水揚げは地位ある方とに考えていたが、鉄道省の三土大臣が喜春を気に入ってくれていたので大臣との水揚げを段取りし、喜春に伝えた。次の晩「とんぼ」での宴会で床の間を背負っていた三土大臣が「さあこっちにおいで」と言われ隣に座った。しかし高齢ということもあり、内心「トォーンでもない」、「ジョーダンジャナイワ」と思った。宴会半ばで大臣は席を立ち、その後「喜春ちゃん、ちょっと」とお勝姐さんに呼ばれ、裏梯子を上がった初めて入る部屋に連れていかれた。そこは綺麗な六畳間で大臣がどてらを着て手酌で飲んでいた。暫くあって次の間の床に座った大臣から「さぁ、こっちにおいで」と言われたが、涙ながらに手をついて謝った。(この場面の描写は迫力がある。)大臣に恥をかかせた形になったが、大臣は喜春が英語学校に通っていると聞いてタイプライター購入資金100円を喜春の衿元に押し込み、お勝姐さんには何も言うなと言って帰って行った。翌日本家の姐さんや喜春の祖母が商品券をもって「とんぼ」の女将とお勝姐さんに詫びに行った。

昭和11年6月頃、ロシアのオペラ歌手フョードル・シャリャピンを接待するため近衛文麿の別宅「荻外荘(てきがいそう)」に呼ばれた。たまたま車を降りた玄関口で喜春を案内してくれたのが弟で音楽家の近衛秀麿。喜春はかなりの面食いで、その場で一目惚れ。そこでの宴会は盛り上がり シャリャピンもかなり満足したようだ。暫くして廊下に出て化粧を直していると秀麿氏から小さなメモを渡され「デンワ書いて」と言われた。喜春は震える手で電話番号を渡した。

翌日千疋屋でデート。その後秀麿氏は築地の「川喜」良く来るようになり、友人と自宅に遊びに行くこともあった。3人子供がいたが、奥様とは別居中。喜春は有頂天で、毎日お互いに電話を掛け合っていた。その後二人で横浜、熱海や日光の旅館に偽名で泊まった。喜春は洋装だったのでバレなかったようだ。そこまでは理解できるが、なんと二人で北海道へ行ったという。当時銀座から北海道へ行くのは大旅行だった筈。北海道では登別の旅館の夕食時に警官が踏み込んできて誰何されたが、秀麿が貴族院議員のパスを見せると警官は平身低頭して逃げ去ったという。

その秀麿氏がヨーロッパへ行くことになった。出発後半年くらいしてベルリンから秀麿の指揮するオーケストラの録音がラジオ放送された際、彼のスピーチがあり、その中に二人だけに分かる暗号を入れて話してくれて感激。毎日のように手紙の往復が続いた。二年して彼は帰国したが、しばらくして今度はヨーロッパ経由でニューヨーク赴任が決まった。彼は喜春を連れて行こうと考え学習院の学友であり、ニューヨーク総領事に内定していた本野盛一子爵に相談した。勿論本野子爵もお座敷での喜春を知ってる。しかし祖母も母も大反対。

このため大野子爵は祖母と母を説得するため、わざわざ会ってくれたそうです。その三日後喜春は、お兄様(近衛文麿首相)に呼ばれた。なんと祖母と母が事前に首相に面会し、喜春に洋行を止めるよう説得を頼んだというのです。そのため首相から諄々と説得され、ついに諦めてしまいました。「私の祖母や母にしたら、せっかく売り出しきたところなのに、アメリカなんかへ行くなんて、ということなのです。(中略)かれは1週間もしないうちにヨーロッパに行ってしまいました。それっきり数年して戦争になり、大切な大切なあたしのロマンスはこっぱみじんになってしまいました。」

その後時局柄色々と嫌な事もあり、芸者を止めて嫁に行こうと考え始める。六義園でのメキシコ使節団接遇に通訳として呼ばれた喜春はそこで会った外務省の若い役人である太田一雄と相思相愛の中となり、結婚を決意する。祝言もそこそこに彼の任地であるカルカッタの総領事館に向かうため横浜から出航。そのインドでも色々あったようです。

喜春は1956年からニューヨークで暮らしており、一時帰国した際にNHK朝ドラ「おはなはん」の作者で旧知の仲である林謙一から「喜春ちゃん今度帰ってきたら『喜春』ってのを書くよ。『おはなはん』よりもっと色っぽく面白くなるぞ」と言ってくれたのですが、それからニューヨークに戻って8年も帰国しなかったので、林謙一は亡くなってしまいました。「だから喜春ちゃんは自分で書いたんです。」 その後離婚し、晩年はニューヨークで一人暮らし。平成16年、ニューヨークの自宅で没

芸者というと京都が思い出され、江戸、東京では花魁に係る話の方が多い。それで「江戸っ子芸者」という題を付けたのかも知れません。この本は当時の新橋芸者衆の日常、お座敷、恋愛等々を、全部を紹介できませんが 本人で無ければ書きえない面白いエピソード満載です。何しろ近衛文麿をはじめ当時の有名人の名前が次々出てきます。政財界、文人墨客と知己を得る上にお座敷に呼ばれた落語家、講釈師の噺を聞けたという役得もありました。こんな話を読むと、この頃新橋の料亭で遊んでみたかったとしみじみ思う次第であります。尚、本書は昭和60年に出版され、現在は草思社文庫になっています。

下の地図は文庫本に挿入された昭和初期の銀座界隈です。(地図が小さく見にくいと思いますが、連絡いただければ大判をお送りします。)下の図の真中、築地川沿いに新橋演舞場があり、その西に昭和の料亭政治の大舞台だった「金田中(かねたなか)」があります。ここは今でも一見さんお断りです。図面の一番下「とんぼ」の左隣にあるのが芥川賞/直木賞選考会場の「新喜楽」です。近衛秀麿氏が通ったのは図面の右下、築地小学校の対面の「川喜」。私は新橋演舞場はす向かいの「花蝶」に一度行った事があります。有名な料亭でしたが、今は広間にテーブルを置いて和食レストランのようになっていました。

昭和初期の銀座界隈

不良役者/梅宮辰夫著

梅宮辰夫が亡くなったのは令和元年12月12日。この本は奥付に「2019年12月12日第一刷発行」とある。娘のアンナが12月12日以降最初にMXTVに出た時、この本は既に印刷済みで、父にサインをしてもらうため何冊か自宅に届けられていた、と語っていた。 自身の映画俳優人生と破天荒な交遊録を口述筆記したものであるが、不謹慎ながら間に合って良かった、という気がする。腰巻の裏表紙側には「俺が役者になった目的は次の4つ。いい女を抱くこと。いい酒を飲むこと。いい車に乗ること。きれいな海が見える一等地に家を構えること。」とある。最初の3つは当然とも思えるが、4つ目はやや意外で彼の家族に対するやさしさなんだろうと思う。

小学校4年で満州から引揚げ、水戸に定住。父は開業医で大学は医学部を受けるが失敗。やむなく日大法学部入学。昭和33年、行きつけのゲイ寿司屋の勧めで受けた東映ニューフェイスに合格。当時の東映は京都撮影所での時代劇がメインで東京撮影所は添え物とも言われた現代劇。しかし大スターの多い時代劇俳優になろうという気はなく、ひたすら役者になった目的を追い求めて東京で現代劇を演じることにした。

そのころは毎晩銀座へ行く。当時、銀座には日活の石原裕次郎、小林旭、大映の勝新太郎、田宮二郎等の大スターが闊歩していた。しかし高倉健は酒を飲まず、鶴田浩二は倹約家とあって、東映のスターは余り出てこない。そこで、自分は東映の看板を背負って銀座のクラブに通った。勿論役者になった目的を達成するためだ。当時は今のように気の効いたホテルは無く、店がハネた後は女のアパートに行き、まず冷蔵庫の中を見る。新鮮な食品が揃い、飲物や調味料が整然と整理されていればよし、そうでなければ「評価の対象外」だった。

不良番長シリーズが当たり仁義なき戦いの頃は一本当たり数百万のギャラを稼ぐ。当然のように銀座でモテまくり複数の女性と付合うのは当り前。不良番長シリーズを撮っていた頃、新人女優の芸名を頼まれ、考えた末に当時一番気に入っていた銀座ホステスの源氏名を付けた。すると本人が何かお礼がしたいと言う。そこで一回寝たら数日後股間がやばい。その話を聞いた山城新伍が俺もやばいと言う。例の新人女優を抱いたらしい。「えっ?なんでおまえがヤッたんだよ」と問い詰めると、迫ってみたがラチがあかず「君の芸名は俺と辰ちゃんが一緒に考えたんだよ」という嘘でなんとかなったらしい。「もちろん俺も新伍も映画のゴッドファーザーのように、その新人女優の面倒を生涯にわたって見たわけじゃない(笑)」

昭和43年クラブ「姫」のホステスと結婚したが、半年で離婚。その後銀座の有名クラブに居たクラウディアを菅原文太から紹介され、美人で気立てもスタイルも良くすっかり気に入ってしまった。しかしホステスとは以前失敗していることもあり、母親は結婚に反対し絶対に見合いをさせると言う。仕方なく3年付き合ったクラウディアに見合いをすることになったので別れてくれと言うと「二号さんで良いから分かれないで。一週間に一度でもいい。会ってくれさえすれば良い。」彼女の言葉に胸を打たれ結婚したいと両親を説得するが猛反対。仕方なく家を出て彼女のアパートで同棲生活。この時アンナを身ごもる。これがスポーツ・ニッポンに素っ破抜かれ、昭和47年に結婚した。

梅宮は何度もガンに犯されており、その都度克服してきた。そのためか クラウディア と結婚すると夜の遊びはプッツリと止め撮影が終わると真っすぐ帰宅する毎日を送っていた。妻と娘との時間を大切にしたかったのだろう。「前略おふくろ様」の撮影の頃、銀座の京料理の板長から板前の手捌きを習うにつれて料理に興味が湧き、晩年は毎日5時半に起きてアンナの弁当を作っていた。

昭和の時代の映画スターの破天荒な暮らしぶり、エピソード満載で面白い。本人以外にも勝新太郎、若山富三郎、高倉健、山城新伍、松方弘樹、菅原文太等々の横顔が見える。特に高倉健の包茎話は初出であろう。 そんな映画スターが輝いていた時代の真っ只中で思い切り演じ、遊んだ梅宮は役者になる目的を全て実現したように思われる。しかし、アンナについてだけは自分の躾云々と悔恨の気持ちが見てとれた。

日本の「老後」の正体/高橋洋一著

時折、新聞、TV等のマスコミで「日本は1,000兆円を越える借金があり、このままでは破綻する。よって増税せざるをえない。」とか「少子高齢化が進みこのままでは年金制度が破綻する。よって現在年金掛金を払っている人は将来年金が貰えなくなる。」というような論説を見聞きするが、これらは嘘です。

著者は元大蔵官僚で現在は嘉悦大学教授。専門は数学で最近は「数量政策学者」と自称している。経済政策的にはリフレ(Reflation)派と呼ばれ、政府(財務省)や日銀の誤った経済政策を糾弾している。大蔵省在職時代、初めて日本国の貸借対照表を作り、現在でも引き継がれているので財務省のホームページを検索すれば誰でも見る事が出来る。

まず借金であるが、日本国が破綻するか否かは普通の企業と同様、その貸借対照表(バランスシート)を見れば見当が付く。日本銀行は日本国の子会社なので、連結すれば2017年度において日本国の純債務は約40兆円となり、殆ど問題ない。(但し、財務省ホームページの貸借対照表では日銀は連結されていない。)

本書180頁(2017年度)

年金は年金数理という理論で設計されている。これの肝は「その人が納めた保険料」=「その人が将来貰える給付額」。例えば20歳から65歳まで保険料を支払い、仮に平均寿命が80だとすると「その人が45年間納めた保険料の総額」=「その人が15年間で受け取る年金の総額」。よって平均寿命より長生きした人は得するが、早死にした人は損する事になる。(給付年齢前に亡くなった人が支払った保険料は年金支払いに繰り入れられる。)

内閣府の「高齢社会白書」によれば今後少子化が進展し、2020年には年金受給者一人を2.0人で、2040年には1.5人で支える事になる云々。よって、このまま少子化が進めば年金制度は破綻する事になる。しかし年金は人数ではなく、金額の問題である。保険金を支払う現役世代の減少率は0.5%/年程度であるから、この程度以上に賃金が増加すればそれに伴い保険料も増収となるで問題ない。 実際、アベノミクス開始以降失業率が低下し、労働力人口は増えており総賃金は増加している。一方最近、賃金は上がってない、上がるどころか下がっていると平均賃金を見て言う人がいるが、以下の様に平均賃金でみると間違いやすい。

昨年
Aさん  失業中 月給0円
Bさん  月給20万円 
Cさん  月給30万円     
この場合平均給与は(20+30)/2=25万円

今年
Aさん  仕事が見つかって 月給15万円
Bさん  少し賃上げして 月給22万円
Cさん  少し賃上げして 月給33万円 
この場合、平均給与は(15+22+33)/3=23.3万円 
三人とも今年の所得は増えているのに平均賃金は下がっている。

では、なぜ、誰がこのような誤った情報を流布するのか?まず第一に増税したい財務省。「社会保障」の不安を煽れば増税もやむなしという空気を醸成できる。金融機関も「年金が危ない」という考えが浸透すれば、さらなる投資や年金保険等の商品が売りやすくなる。実際、年金を受給しても2,000万円貯蓄が無いと危ないという説が世に出てから、金融商品の売り上げはかなり増えているようだ。

本書は数学の塊のようなマクロ経済学を出来るだけ分かりやすく説明するため、高橋先生が高校生と対話するという形式で構成されている。著者は常に定量的で、数値をグラフにして説明しているので分かりやすい。他にも財務省の嘘を糾す本やネット記事も多数あるが、本書は高校生相手という事で専門用語の意味、定義を丁寧に説明してくれている分だけ分かりやすい。(といっても難しいものは難しい)。本書では最後に私的年金の選択指南をしているが、イデコが良いという結論になっている。

小説と違い、新書の書名は編集者が決める事が多く、売らんがために老後の不安に対処するというような意味合いでこの書名を付けたと思われる。それは腰巻の惹句にも良く表れている。しかしながら本書の主眼はバブル崩壊以降、 所謂「失われた20年」の間、デフレが続き、経済成長が停滞したのは 政府(財務省)、日銀の政策の誤り である事を明確に指摘する事にある。

米中は順調に成長しているが、
日本は1995年以降停滞している。

2012年末の衆議院選挙で大勝した安倍首相はアベノミクス第一の矢として大規模金融緩和を実施するため、日銀総裁に黒田東彦氏、副総裁に岩田規久男氏を起用した。これに対し著者は「(中略)この日は、日本経済にとって歴史的転換点であり、私にとっても忘れられない日となった。日銀が本当の意味で変わった日になったからね(後略)」と喜びを率直に披歴している。アベノミクスを悪く言う人は多いが、定量的にきちんと見て行けばかなりの成果が出ていると言える。惜しむらくは10%の消費増税であった。

ヒマつぶしの作法/東海林さだお

東海林さだお氏は漫画家であるが、エッセイも多数上梓されており、過去のヒマつぶしに係るエッセイを集めたのが本書である。

言うまでも無い事であるが、「ヒマ(な状態)にしている」と「ヒマつぶしをしている」とは全く違う。本書では著者がこれまでに経験した数々の「ヒマつぶし」が紹介されている。ルンバ(掃除機)を眺める、釣り堀、洗濯、はとバス、ダンス、テニス、キャバレー、料理、ストリップ、熱海温泉等々。これらをかなり正確に記録し、得意のイラストも使って半笑い(或いは企まざるユーモア)溢れるエッセイに纏められている。チコちゃんに叱られる程度にボーっとしていては決して出来ない仕事である。

極め付きは温泉旅行である。「正調温泉一泊作法」というエッセイの冒頭を引用する。「『たまには温泉にでも行って、ノンビリしてくっか』誰しもそう思う。そう思って、出かけて行ってですね、一度でも《ああ、ノンビリした。楽しかった。いかった》と、帰って来たことがありますか。なんだかひたすらあわただしかった。あれもしたい、これもしたい、と、ウロウロしたけど、結局何もできなかった。ちっともいくなかった。というのが、ごく一般的な、いつわらざる感慨だと思う。(中略)それはなぜか。それは誰もが、″正しい温泉旅行のあり方″というものを認識していないからなのだ。つまり、″正しい温泉旅行の教典″がないからなのだ。」

そこで編集部の二名を加え三人で正しい温泉旅行の規範を作ることになった。まず、泊数であるが「全体をキリリとひきしめたい」との理由で一泊が正統と決定。これより「表温泉旅行道一泊派」を名乗ることにする。宿泊地は熱海、移動は新幹線。宿泊は「当然和風旅館、畳の間、浴衣、丹前、頭に手ぬぐい、廊下スリッパペタペタの世界が現出されなければならない」。この調子で教義がどんどん定まって行く。「しなければならないこと」は射的、浴衣スリッパピンポン、芸者、パチンコ、スマートボール、湯の町遊弋、マッサージ、お土産、ホテルのレビューショー。これらを満足できるのは「ホテル ニューフジヤ」。そしてホテルには午後5時に着かなければならない。

これらの教義を定め最終的に決定した作法は;
5時:ホテル到着
6時:入浴
7時:夕食
8時:外出(射的)
9時半:OSK日本歌劇団レビューショー
10時:芸者到着
12時半:マッサージ到着
1時半:就寝
翌朝7時:起床直ちに朝風呂
7時半:朝食+朝ビール

そして温泉一泊旅行の神髄を悟る。曰く「温泉一泊旅行の神髄は、実は朝風呂ではなく朝ビールであると。朝風呂は朝ビールに至る道程であったと。われわれは遂に一泊温泉の奥義を極めたのだ。『温泉一泊旅行といふは、朝ビールと見附けたり』」。少々補足すれば前夜の所業は朝風呂への、朝風呂は朝ビールへの道程/助走であったと。

ヒマつぶしはボーッとしていては成らず、日程を考え、段取りを考え、予算を考え、その他、諸事百般を頭に入れ、真面目に本気で取り組まなければならない。そうでなければ、後世に語り継がれるような立派なヒマつぶしを成就する事は出来ない。本書の教訓を肝に銘じて自身のヒマつぶし人生の参考としたい。

余談であるが、本書には腰巻の惹句にあるように、いとうせいこうとの対談(2019年夏収録)がある。私は、彼の髪型が変なので余り良い第一印象を持っていなかったが、本対談で披露された発想力は素晴らしいと感じた。「いとう 僕は物事をものすごく忘れるんです。そこでど忘れしたことを思い出したら、その喜びを筆ペンで書いて残すことにしたんです。(中略、サンドウィッチという言葉が出てこなかったとすると)それを後から見てなぜサンドウィッチが出てこなかったんだろうかと自問する。なぜそういうことが起きてしまったんだろうかと。サンドウィッチ伯爵に対しての何かが僕の中にあって抑圧しているとか。自分の弱点を趣味化したんです。」

この提案にショージくんは大いに賛同し、いつでも記録に留める事が出来るように矢立を持って歩くべきだ等々、話が随分広がっていった。確かに面白い試みである。年々歳々ど忘れ、特に人の名前が出てこなくなった自分としてはそれを記録して振り返るのは一つのヒマつぶしになりそうだ。但し、忘れたことを忘れてしまってはどうしようもないが。

ことわざアップデートBOOK/TOKYO MX「5時に夢中!」編

東京MXTV(9ch.)で月曜から金曜、午後5時から「5時に夢中」という番組がある。司会は月~木がふかわりょう、金曜日が原田龍二。日替わりのレギュラーコメンテーターと日替わりゲストが登場する。この番組は2005年に始まり、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブを世に出している。超売れっ子になったマツコもこの番組に恩義を感じているのか、安いギャラにも関わらず、毎週月曜日に出演している。

「ことわざアップデート」は人口に膾炙することわざを、今風にアップデートするという興味深い試みである。既に始まって5年を経過し、この間の作品を纏めたのが本書である。現在は毎週木曜日に「名人」岩井志麻子(作家)、「師範代」中瀬ゆかり(新潮社出版部長)、「見習い」ジョナサン(芸人)と視聴者の案を紹介し、その回のベストをふかわが選出する。最近の作品は下ネタが多く、TVではケラケラ笑いながら見ているが、それを文字として読むと結構エグイ。きついのは避けて作品のいくつかを引用する。

<2015>
● 溺れる者はワラをも掴む → 欲求不満な者は蒟蒻をも掴む
● 石橋を叩いて渡る → 警察にセコムする
● 泣きっ面のハチ → 金欠病に住民税
● 玉にキズ → フェラーリに5時夢ステッカー
● 花より団子 → ブラピよりカルビ
● 寝耳に水 → 窓の外にお兄さん
● 猫に小判 → ハゲにリンス

<2016>
● 水と油 → 港区と足立区
● 糠に釘 → ハゲにクシ
● 武士は食わねど高楊枝 → ブスはナンパされねどピンヒール
● 匙を投げる → 体重計を捨てる
● 触らぬ神に祟りなし → 発言しなけりゃスベリなし
● 風前の灯火 → 台風の前のビニ傘
● 軒を貸して母屋を取られる → 一口頂戴で皿ごといかれる

<2017>
● 井の中の蛙大海を知らず → 胃の中のカルビ体形を知らず
● 犬が西むきゃ尾は東 → 全裸で町出りゃ手は後ろ
● 虎の威を借る狐 → Lの衣(装)借りるとキツめ
● 賽は投げられた → パイは舐められた
● 藪をつついて蛇を出す → エゴサーチして涙出す
● 捨てる神あれば拾う神あり → 捨てるキー局あれば拾うMXあり
● 毒を喰らわば皿まで → 娘を喰らわば母まで

<2018>
● 雨降って地固まる → デキちゃって籍固まる
● 金持ち喧嘩せず → Gカップ胸寄せず
● 泥棒を見て縄をなう → ラブホに入って腹筋なう
● 破れ鍋に綴じ蓋 → 草食男子に肉食女子
● 一寸の虫にも五分の魂 → 無職にも曜日感覚
● 帯に短し襷に長し → セフレには重たし彼女には違うし
● 貰うものは夏も小袖 → 貰うものはハゲもカチューシャ

毎回結構な下ネタを出す回答者又は放送作家の才能には脱帽である。しかし、よくまあこんな本を出すなあと思う反面、予約して買う馬鹿もいるので、まあ、よしとしょう。

全くの余談であるが、例の原田龍二の黒のランクル事件が文春に出たのが5月30日(木)。翌31日(金)の5時に夢中は彼が司会。アシスタントはミッツ・マングローブ、レギュラーコメンテーターが中尾ミエ、ゲストがホリエモン。この3人で原田龍二に言訳をする暇も与えずイジリまわし、大笑い。翌週の6月5日(水)13時からのデイズ(ニッポン放送)は原田龍二担当でアシスタントはニッポン放送アナウンサーの東島衣里。東島は冒頭から、今回の件についてキチンとリスナーに説明して頂きます、とか、奥様にはどう報告されたんですか?等と詰問調で迫り、ついに原田龍二は泣いてしまう。東島アナは真面目で良いんだけれど原田を攻めているのを聞いても面白くもなんともない。これまで出てなかった話を引き出し、5時に夢中の様に笑いに変えてしまう度量が欲しかった。

絵を見る技術/秋田麻早子著

映画を見たり、小説を読んだりするのと違って絵は2秒あれば見られる、或いは見たことになる。逆に一枚の絵を何時間も見ている人もあれば、何日も絵の前に陣取って模写している人もいる。絵の見方は色々あると思うが、本書はその基本を分かりやすく説明している。腰巻にもあるように「名画の構造を読み解く」事が目的である。

少し長いが、序章の一部を引用します。「(前略)理由はなんであれ、歴史的名画をちゃんと見られるようになりたい、と思う人が増えているのは確かでしょう。しかしながら絵を好きなように見てもいいんですよと言われても、どこから手をつけていいのか分からないものです。これで合っているのだろうか、と不安な気持ちにもなるでしょう。反対に、絵の背景知識を深めないと絵はよく分からない、と言われると、今度はたくさん勉強しなくてはと思ってしまいます。一方は感覚に頼る方法で、もう一方は知識に頼る方法。もちろん、どちらも必要なことは確かですが、センスに自信が無く、知識が僅かしかなくても、絵をちゃんと見る方法はないものでしょうか。」

この文は正しく我々素人の絵に対する思いを代弁しています。この問いに対する著者の回答は「『好きなように見る』と『知識を持って見る』の間にあるものはなんでしょう。それは『観察』です」。要するに漫然と「見る」のではなく「観察」せよと。「観察」とは目的を持って「見る」事であり、「観察」するためには「スキーム(見るための枠組み)」が必要である。本書はこのスキームを多くの名画のカラー図版を使って分かりやすく説明してくれます。

第1章 「この絵の主役はどこ?」-フォーカルポイント
    まず絵の主役をさがす。
第2章 「名画が人の目をとらえて放さないのはなぜか?」-経路の探し方
    画面の中の視線誘導。
第3章 「『この絵はバランスがいい』ってどういうこと?」-バランスの見方
    構造線を見つける。
第4章 「なぜその色なのか?」-絵具と色の秘密
    色の見方
第5章 「名画の裏に構造あり」-構図と比例
    構図の定石を知る。
第6章 「だから名画は名画なんです」-統一感
    絵の表面的な特徴

私には「視線誘導」、「構造線」、「構図」の章を興味深く感じた。絵を見ると色味やタッチに目を奪われがちで、構造線と構図による視線誘導には殆ど意識がなかった。 構造線は絵のバランスを決める骨組みのようなものでボッティチェリからモンドリアンまで、これで説明されているのには少々驚いた。 構図は言うまでもなくルネサンス以前から多くの研究があり、それに加えて黄金比に代表される矩形の比例、比率の研究が相まって近代絵画にその成果が上手く取り入れられている事が分かる。

我々が絵を見る際に何をどう見れば良いか、という指針が非常に分かりやすく説明されており、入門書としては最適だと思われる。これまでこういう本が無かったためか良く売れているそうです。

美しき愚かものたちのタブロー/原田マハ著

これが出た時は余り関心がなかった。しかし直木賞候補になったと聞いて急に興味が湧いた。全く権威に弱い小市民である。腰巻に書いてある通り、松方コレクションの成立事情を追った事実に基づく小説である。

川崎造船所の社長である松方幸次郎は第一次大戦で船が不足することを見越し、船主からの発注前に予め船を作って在庫とする(ストックボート)ビジネスを発案した。通常船舶の建造には1~2年程度かかるが、在庫があれば急の需要に応えられる。しかし、必ず売れる確証は無くリスクは大きい。役員会が反対したのも当然である。しかし、これが大当たりした。船が不足し、市場の値が吊り上がる。元値の6~10倍で売れた。この儲けを美術品購入に充てたのが、松方コレクションの原型となった。

松方は美術に関する造詣は無い。しかし西洋美術館を建てたい、若い人に本物の西洋美術を見せてやりたい、との一念からロンドン、パリで西洋美術品と海外に流失した浮世絵を買い漁った。西洋絵画だけでも3,000点以上と言われる。 しかし、第二次世界大戦のドサクサで全てを日本に送ることが出来ず、フランスの田舎に疎開させたが、敗戦後その大部分が仏政府に接収された。

1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は独立を回復した。その翌年、仏政府と松方コレクションの返還交渉を行うため美術史家の田代と文部省の役人である雨宮の二人がフランスに乗込むところから物語は始まる。仏政府は大部分の返還には応じたが、コレクションの核となる20点については拒否した。全20点の返還は無理と考えた田代は次の3点の返還を強く主張した。ゴッホの「アルルの寝室」、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」、モネの「睡蓮、柳の反映」。交渉の結果ゴッホ以外は返還された。しかし、モネはその後行方不明となる。

アルルの寝室/ゴッホ

2016年9月、フランスの美術館関係者がルーヴル美術館内でこれを発見した。上半部が大幅に棄損していたが約1年間掛けて日本で修復した。これらを、松方コレクションを展示するために 昭和34年(1959)に建設された国立西洋美術館にて開催された「松方コレクション展」でこの3作が同時に展示された。( 「アルルの寝室」はオルセー美術館蔵)。 モネの「睡蓮、柳の反映」 は約1年間かけた修復に大変なご苦労があったと思われるが、欠損部分が大きく、残念ながらモネの傑作を見ているという感慨は無かった。

松方の美術品購入は1921年から始まる。若き日の田代がアドバイザーとなって、ロンドン、パリの画商で次々に買い漁る。勿論画商の間で評判となり、次々に素晴らしい作品が提示される。松方は田代のアドバイスによって、見ずに買った絵もかなりあるようだ。また、現地大使館員の紹介でモネの自宅に2回赴き、本人から 「睡蓮、柳の反映」 を含め数点を直接買っている。絵を買い漁る派手な場面や松方の部下で元飛行機設計技師であった日置がフランスに侵攻したドイツからコレクションを守ろうと人生を掛けて奮闘した感動的場面もあり、面白い読み物であった。尚、松方がヨーロッパで美術品を買い漁る際、当時のドイツの潜水艦の設計図を入手するというミッションがあった、と言われているが、確かなことは不明である。

余談ではあるが、最近の研究でゴッホの 「アルルの寝室」 は製作した時と現在では色が違うという事が判明した。もう少し、調べてみたい。

パノニカ/ハナ・ロスチャイルド著 小田中裕次訳

1950,60年代のビ・バップや当時のモダン・ジャズを好きな人なら「ニカ男爵夫人」(キャサリン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド)という名前を一度は聞いたことがあるだろう。ニカはロスチャイルド家の一員で、文字通り深窓の令嬢であったが、1949年セロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に心を奪われ、1951年ニューヨークに移住した。その後、亡くなるまでセロニアス・モンクを始めとする当時のジャズメンを物心両面で支え続けた。もしニカがいなければジャズの名曲・名演の多くが生まれなかったと言っても過言ではない。

Kathleen Annie Pannonica (1913 – 88)
メキシコにて(34歳)

ロスチャイルド家の創始者であるマイアー・アムシェル (1744-1812)はドイツ・フランクフルトで唯一ユダヤ人の居住が許可された非常に狭く、汚い貧民窟で生まれ、常にキリスト教徒から差別されていた。彼はキリスト教徒の嫌がる金貸しを始め、1770年代には綿製品や穀物取引も始めた。その後10人の子供のうち、生き残った5人の息子をフランクフルト、ベニス、ロンドン、ナポリ、パリに送り出し、1820~1860年代にかけてヨーロッパにおけるロスチャイルド家の地歩を固めた。特にロンドンの二代目ネイサン・メイヤーはロスチャイルド家中興の祖であり、為替相場、債券取引市場を開設し、莫大な利益を上げた。ロスチャイルド家はその頃、既に富と権力の代名詞となっており、普仏戦争の戦費、英国のスエズ運河買収資金やポルトガルからのブラジル独立資金の調達などヨーロッパの歴史の中で数えきれない重要な役割を果たしている。また日本の日露戦争戦費調達にも関与している。余談ではあるが、彼らはフランスでワイン生産にも力を入れ、現在でもロスチャイルド(カタカナ表記でロートシルト)の名が付く高級ワインが販売されている。

ロスチャイルド家は英国とヨーロッパ各地に豪邸や城を所有していたが、ニカは英国の城で生まれた。ロスチャイルド家では男子は学校へ行くが女子は許されなかった。彼女は常に乳母、侍従、家庭教師に囲まれて過ごし、毎日規則正しい生活を送った。邸外に出ることは少なく、終日自室で過ごす事も多かった。お金を使った事も無く「一人では自分をどう世話して良いのか分からない」という生活だった。16歳になって始めて両親と夕食を共にする事を許された。フランスのシェフが高級な料理を作っていたが、一週間のメニューは決められており、余りの単調さにうんざりしたと述べている。

ニカが17歳になった夏(1930)、姉のリバティとフランス、オーストリア、ドイツ へお供を引き連れて出かけ、ヨーロッパ社交界にデビューした。現地紙は二人の動向を逐一報道した。令嬢姉妹はそれまで政治的な事を意識したことは無く、ドイツでヒトラーがユダヤ人を敵視していることをこの時初めて知った。ニカは19歳になって 良き伴侶を見つけるためロンドン社交界にデビューした。英紙、The Timesにパーティの参加者、ドレス、そのデザイナー等が連日詳報された。しかしニカは社交界で認められることに興味は無く、アメリカのジャズとミュージシャンに夢中だった。

ニカが22歳(1935)の時にロスチャイルド家親族の昼食会で出会った10歳年上のジュール・ド・コーニグズウォーター男爵に夢中になった。ジュールはニカをフランス、ドーヴィルの別荘に招待した。運転手と侍女が同行したもののニカにとっては初めての胸躍る海外一人旅であった。しかしこの時二人の相性に不安を感じたニカは姉のリバティに助言を受けるという名目で姉のいるニューヨークに向かった。真の目的はアメリカ音楽であった。当時のニューヨークはジャズだけでなく、前衛絵画、オペラ、文学と新しい波が興り、退屈なヨーロッパとは対照的であった。結局1935年9月、ニューヨークで挙式を行った。New York Timesは「億万長者ロスチャイルド家の令嬢が結婚」という見出しで詳細な記事を掲載した。

新婚旅行後彼らはパリで暮らし2人の子供を設けた。この頃ヒトラーの台頭でロスチャイルド家といえどもユダヤ人差別受けていた。1939年ジュールが出征したが、彼女はパリに留まり、パリが陥落し、独軍がパリに到着する直前迄、難民を屋敷に受け入れていた。ニカは若いころ自動車の運転と航空機の操縦を会得していたが、飛行機の油を買える状況ではなく、最後の船で多くの難民と共に英国へ帰還した。

ジュールはド・ゴールの呼びかけに応え自由フランス軍に志願した。ニカもジュールの後を追って自由フランス軍に志願した。当時は女性を兵士として前線に送る事は許されなかったが、ニカは命令を無視して夫のいるアフリカへ向かった。アフリカではマラリアに罹ったが回復し、夫との再会を果たした。現地でニカは軍人として爆撃機に搭乗していたそうだ。当時ヒトラーはユダヤ人殲滅を目指し、多くのユダヤ人を収容所に送り込んでいた。ロスチャイルド家でも何人かが収容所で殺されている。著者はヒトラーの反ユダヤの目的はロスチャイルド家の殲滅だと言っている。フランスのロスチャイルド家の多くの財産、美術品はナチスとフランスビィシー政権により没収された。

戦後、夫のジュールは外交官としてノルウェーに赴任。その後メキシコが任地となり移住した。ニカと厳格な夫との結婚生活は破綻に向かっていたが、ニカはメキシコに行けばニューヨークへ出かけやすくなるだろうと考えていた。1949年ニカはニューヨークからの帰途、旧知のピアニストであるテディ・ウィルソンからセロニアス・モンクのレコードを聞かせてもらった。彼女は衝撃を受け、20回続けて聞いたという。(しかし、当時の批評家はモンクのピアノを酷評していた。) このため帰りの飛行機に乗り遅れ家には帰らなかった。。

ニカはニューヨーク・セントラルパークに接するスタンホープという高級ホテルのスィートルームに引っ越し、すぐに白いロールスロイスを買った。彼女はスピード狂で交通規則は殆ど無視していたらしい。ニカは毎日夕方に起き52通りのジャズクラブで朝までジャズを聴き、当時新進気鋭のミュージシャン、作家、画家と交流した。しかし、お目当てにセロニアスモンクを探し出せなかった。 モンクは1951年にヘロイン所持で逮捕され、その後7年間キャバレーカード(日本で言う芸人鑑札)を取上げられ、演奏が出来なかったからだ。 ニカは自分の将来を考えるため1954年にイギリスに戻り、正式な離婚手続きを進めた。

ニカが英国に戻った年にモンクがパリに来ると聞き、すぐにパリに向かった。その演奏を聞いた瞬間からニカの人生は変わった。それから28年間、ニカは人生をセロニアス・モンクに捧げた。その後ロンドンに戻り、ロンドンで最高かつ最大のロイヤル・アルバート・ホールの日曜日を6周連続で押さえた。英国の聴衆にモンクを紹介するためである。しかし、モンクのバンドメンバーは公演許可が得られず、彼女は政府や有力な地位にある知人に陳情したが無駄だった。ニカはニューヨークに戻り、その後二度と英国で暮らすことは無かった。

ニカは早速、毛皮を着て白いロールスロイスに乗り、猛スピードでモンクのいるニューヨークサンファル地区という黒人街へ向かった。モンクを迎えるとニカはホテルの部屋にピアノを置き、モンクは殆ど毎日そのピアノを弾いていた。夜はクラブでジャムセッションに参加し、終演後はミュージシャンたちをホテルに招き食事を振舞った。このホテルは人種隔離をしていたので、黒人ミュージシャンは業務用エレベータでニカの部屋に向かった。毎日の食事にも不自由していたミュージシャンにとっては夢のようなご馳走であった。

ビ・バップの創始者、或いは神様と呼ばれたアルトサックス奏者のバードことチャーリー・パーカーは1955年3月12日夜ニカの部屋を訪れた。その時既に、コカインで酷い容態であった。そして部屋のソファで息を引き取った。クリントイーストウッド監督の「バード」では往診に来た医者にも愛想よく相対し、静かに死んでいくが、実際には肝硬変と胃潰瘍の酷い痛みに襲われたいた筈だと著者は推測している。

「ジャズ界の”バップ”の王様、バードことチャーリー・パーカー、53歳、サックス奏者、は土曜日夜大金持ちであるニカの五番街にある高級マンションで死んだ、そしてそれ以降ベルビュー病院の遺体安置室に留め置かれ、月曜日の夜まで公にならなかった。」(以下略)

問題は紙面にもあるように土曜日に死んだことが月曜日に公になった事である。これについては色々な説があるが、現時点でも全てが解明されたとは言い難い。タブロイド紙はスキャンダルとして書き立てた。警察の捜査もあり、ニカはホテルから追い出される羽目となった。これを聞いたジュールは怒り狂い離婚手続きを進め、子供の親権を奪った。この事件以降ニカは孤独になったためか、ますますモンク一途となり、モンクが起こした事件の身代わりになって警察の捜査を受けた事もあった。このようにニカはモンクのみならず多くのジャズメンに献身的に支援した。本書には、その頃の興味深いエピソードが綴られている。

1970年代に入るとモンクの健康はすぐれず、演奏にも支障が出始めた。ニカは何とかモンクを助けようと色々な医師と相談し、入院もさせたが1976年7月4日が最後の演奏となった。その後入退院を繰り返し、1982年2月5日、激しい心臓発作を起こし帰らぬ人となった。モンクを失ったニカは英国に帰る事も出来た筈である。しかし、ニカはその生活を変えなかった。昼過ぎに起きだし、ベッドで新聞、雑誌を読み、音楽を聴き、夜になるジャズクラブへ行く。そんなニカもついに癌と肝炎で1988年11月30日に亡くなった。享年74。

ニカに世話になった多くのジャズメンは彼女への感謝の印として彼女にちなむ曲を作曲している。また、モンクの作曲した Round about midnight, Straight no chaser, Blue Monk, Well you needn’t, Misterioso, Panonica, Ruby my dear, Epsitrophy等は多くのジャズメンにカバーされた人気曲でモンクは作曲家として評価される場合も多い。

ニカはロスチャイルド家の第五世代、著者のハナ(1962年生)は第七世代である。著者がロスチャイルド家の一員なので、ニカの幼少期から米国に渡るまでの生活が細かく描写できている。ニカがニューヨークに渡った1951年は戦争で破壊され、暗く重苦しいヨーロッパに比べ、米国は自由闊達な天国に見えた筈である。ニカは生涯、豪奢な生活を送っていたが、ヨーロッパでは自由だけは得られなかったのだろう。

ニカが初めて聞いて衝撃を受けたセロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」