パノニカ/ハナ・ロスチャイルド著 小田中裕次訳

1950,60年代のビ・バップや当時のモダン・ジャズを好きな人なら「ニカ男爵夫人」(キャサリン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド)という名前を一度は聞いたことがあるだろう。ニカはロスチャイルド家の一員で、文字通り深窓の令嬢であったが、1949年セロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に心を奪われ、1951年ニューヨークに移住した。その後、亡くなるまでセロニアス・モンクを始めとする当時のジャズメンを物心両面で支え続けた。もしニカがいなければジャズの名曲・名演の多くが生まれなかったと言っても過言ではない。

Kathleen Annie Pannonica (1913 – 88)
メキシコにて(34歳)

ロスチャイルド家の創始者であるマイアー・アムシェル (1744-1812)はドイツ・フランクフルトで唯一ユダヤ人の居住が許可された非常に狭く、汚い貧民窟で生まれ、常にキリスト教徒から差別されていた。彼はキリスト教徒の嫌がる金貸しを始め、1770年代には綿製品や穀物取引も始めた。その後10人の子供のうち、生き残った5人の息子をフランクフルト、ベニス、ロンドン、ナポリ、パリに送り出し、1820~1860年代にかけてヨーロッパにおけるロスチャイルド家の地歩を固めた。特にロンドンの二代目ネイサン・メイヤーはロスチャイルド家中興の祖であり、為替相場、債券取引市場を開設し、莫大な利益を上げた。ロスチャイルド家はその頃、既に富と権力の代名詞となっており、普仏戦争の戦費、英国のスエズ運河買収資金やポルトガルからのブラジル独立資金の調達などヨーロッパの歴史の中で数えきれない重要な役割を果たしている。また日本の日露戦争戦費調達にも関与している。余談ではあるが、彼らはフランスでワイン生産にも力を入れ、現在でもロスチャイルド(カタカナ表記でロートシルト)の名が付く高級ワインが販売されている。

ロスチャイルド家は英国とヨーロッパ各地に豪邸や城を所有していたが、ニカは英国の城で生まれた。ロスチャイルド家では男子は学校へ行くが女子は許されなかった。彼女は常に乳母、侍従、家庭教師に囲まれて過ごし、毎日規則正しい生活を送った。邸外に出ることは少なく、終日自室で過ごす事も多かった。お金を使った事も無く「一人では自分をどう世話して良いのか分からない」という生活だった。16歳になって始めて両親と夕食を共にする事を許された。フランスのシェフが高級な料理を作っていたが、一週間のメニューは決められており、余りの単調さにうんざりしたと述べている。

ニカが17歳になった夏(1930)、姉のリバティとフランス、オーストリア、ドイツ へお供を引き連れて出かけ、ヨーロッパ社交界にデビューした。現地紙は二人の動向を逐一報道した。令嬢姉妹はそれまで政治的な事を意識したことは無く、ドイツでヒトラーがユダヤ人を敵視していることをこの時初めて知った。ニカは19歳になって 良き伴侶を見つけるためロンドン社交界にデビューした。英紙、The Timesにパーティの参加者、ドレス、そのデザイナー等が連日詳報された。しかしニカは社交界で認められることに興味は無く、アメリカのジャズとミュージシャンに夢中だった。

ニカが22歳(1935)の時にロスチャイルド家親族の昼食会で出会った10歳年上のジュール・ド・コーニグズウォーター男爵に夢中になった。ジュールはニカをフランス、ドーヴィルの別荘に招待した。運転手と侍女が同行したもののニカにとっては初めての胸躍る海外一人旅であった。しかしこの時二人の相性に不安を感じたニカは姉のリバティに助言を受けるという名目で姉のいるニューヨークに向かった。真の目的はアメリカ音楽であった。当時のニューヨークはジャズだけでなく、前衛絵画、オペラ、文学と新しい波が興り、退屈なヨーロッパとは対照的であった。結局1935年9月、ニューヨークで挙式を行った。New York Timesは「億万長者ロスチャイルド家の令嬢が結婚」という見出しで詳細な記事を掲載した。

新婚旅行後彼らはパリで暮らし2人の子供を設けた。この頃ヒトラーの台頭でロスチャイルド家といえどもユダヤ人差別受けていた。1939年ジュールが出征したが、彼女はパリに留まり、パリが陥落し、独軍がパリに到着する直前迄、難民を屋敷に受け入れていた。ニカは若いころ自動車の運転と航空機の操縦を会得していたが、飛行機の油を買える状況ではなく、最後の船で多くの難民と共に英国へ帰還した。

ジュールはド・ゴールの呼びかけに応え自由フランス軍に志願した。ニカもジュールの後を追って自由フランス軍に志願した。当時は女性を兵士として前線に送る事は許されなかったが、ニカは命令を無視して夫のいるアフリカへ向かった。アフリカではマラリアに罹ったが回復し、夫との再会を果たした。現地でニカは軍人として爆撃機に搭乗していたそうだ。当時ヒトラーはユダヤ人殲滅を目指し、多くのユダヤ人を収容所に送り込んでいた。ロスチャイルド家でも何人かが収容所で殺されている。著者はヒトラーの反ユダヤの目的はロスチャイルド家の殲滅だと言っている。フランスのロスチャイルド家の多くの財産、美術品はナチスとフランスビィシー政権により没収された。

戦後、夫のジュールは外交官としてノルウェーに赴任。その後メキシコが任地となり移住した。ニカと厳格な夫との結婚生活は破綻に向かっていたが、ニカはメキシコに行けばニューヨークへ出かけやすくなるだろうと考えていた。1949年ニカはニューヨークからの帰途、旧知のピアニストであるテディ・ウィルソンからセロニアス・モンクのレコードを聞かせてもらった。彼女は衝撃を受け、20回続けて聞いたという。(しかし、当時の批評家はモンクのピアノを酷評していた。) このため帰りの飛行機に乗り遅れ家には帰らなかった。。

ニカはニューヨーク・セントラルパークに接するスタンホープという高級ホテルのスィートルームに引っ越し、すぐに白いロールスロイスを買った。彼女はスピード狂で交通規則は殆ど無視していたらしい。ニカは毎日夕方に起き52通りのジャズクラブで朝までジャズを聴き、当時新進気鋭のミュージシャン、作家、画家と交流した。しかし、お目当てにセロニアスモンクを探し出せなかった。 モンクは1951年にヘロイン所持で逮捕され、その後7年間キャバレーカード(日本で言う芸人鑑札)を取上げられ、演奏が出来なかったからだ。 ニカは自分の将来を考えるため1954年にイギリスに戻り、正式な離婚手続きを進めた。

ニカが英国に戻った年にモンクがパリに来ると聞き、すぐにパリに向かった。その演奏を聞いた瞬間からニカの人生は変わった。それから28年間、ニカは人生をセロニアス・モンクに捧げた。その後ロンドンに戻り、ロンドンで最高かつ最大のロイヤル・アルバート・ホールの日曜日を6周連続で押さえた。英国の聴衆にモンクを紹介するためである。しかし、モンクのバンドメンバーは公演許可が得られず、彼女は政府や有力な地位にある知人に陳情したが無駄だった。ニカはニューヨークに戻り、その後二度と英国で暮らすことは無かった。

ニカは早速、毛皮を着て白いロールスロイスに乗り、猛スピードでモンクのいるニューヨークサンファル地区という黒人街へ向かった。モンクを迎えるとニカはホテルの部屋にピアノを置き、モンクは殆ど毎日そのピアノを弾いていた。夜はクラブでジャムセッションに参加し、終演後はミュージシャンたちをホテルに招き食事を振舞った。このホテルは人種隔離をしていたので、黒人ミュージシャンは業務用エレベータでニカの部屋に向かった。毎日の食事にも不自由していたミュージシャンにとっては夢のようなご馳走であった。

ビ・バップの創始者、或いは神様と呼ばれたアルトサックス奏者のバードことチャーリー・パーカーは1955年3月12日夜ニカの部屋を訪れた。その時既に、コカインで酷い容態であった。そして部屋のソファで息を引き取った。クリントイーストウッド監督の「バード」では往診に来た医者にも愛想よく相対し、静かに死んでいくが、実際には肝硬変と胃潰瘍の酷い痛みに襲われたいた筈だと著者は推測している。

「ジャズ界の”バップ”の王様、バードことチャーリー・パーカー、53歳、サックス奏者、は土曜日夜大金持ちであるニカの五番街にある高級マンションで死んだ、そしてそれ以降ベルビュー病院の遺体安置室に留め置かれ、月曜日の夜まで公にならなかった。」(以下略)

問題は紙面にもあるように土曜日に死んだことが月曜日に公になった事である。これについては色々な説があるが、現時点でも全てが解明されたとは言い難い。タブロイド紙はスキャンダルとして書き立てた。警察の捜査もあり、ニカはホテルから追い出される羽目となった。これを聞いたジュールは怒り狂い離婚手続きを進め、子供の親権を奪った。この事件以降ニカは孤独になったためか、ますますモンク一途となり、モンクが起こした事件の身代わりになって警察の捜査を受けた事もあった。このようにニカはモンクのみならず多くのジャズメンに献身的に支援した。本書には、その頃の興味深いエピソードが綴られている。

1970年代に入るとモンクの健康はすぐれず、演奏にも支障が出始めた。ニカは何とかモンクを助けようと色々な医師と相談し、入院もさせたが1976年7月4日が最後の演奏となった。その後入退院を繰り返し、1982年2月5日、激しい心臓発作を起こし帰らぬ人となった。モンクを失ったニカは英国に帰る事も出来た筈である。しかし、ニカはその生活を変えなかった。昼過ぎに起きだし、ベッドで新聞、雑誌を読み、音楽を聴き、夜になるジャズクラブへ行く。そんなニカもついに癌と肝炎で1988年11月30日に亡くなった。享年74。

ニカに世話になった多くのジャズメンは彼女への感謝の印として彼女にちなむ曲を作曲している。また、モンクの作曲した Round about midnight, Straight no chaser, Blue Monk, Well you needn’t, Misterioso, Panonica, Ruby my dear, Epsitrophy等は多くのジャズメンにカバーされた人気曲でモンクは作曲家として評価される場合も多い。

ニカはロスチャイルド家の第五世代、著者のハナ(1962年生)は第七世代である。著者がロスチャイルド家の一員なので、ニカの幼少期から米国に渡るまでの生活が細かく描写できている。ニカがニューヨークに渡った1951年は戦争で破壊され、暗く重苦しいヨーロッパに比べ、米国は自由闊達な天国に見えた筈である。ニカは生涯、豪奢な生活を送っていたが、ヨーロッパでは自由だけは得られなかったのだろう。

ニカが初めて聞いて衝撃を受けたセロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」

この命、義に捧ぐ/門田隆将著

一読三嘆、事実は小説より奇なり。
以前仕事の関係で台湾海峡の地図を眺めていた時に、中国福建省厦門(アモイ)の沖2~3㎞の金門島が台湾領である事を知った。恥ずかしながら何故かは分からなかった。しかし、本書には金門島が台湾を守った。そして金門島を旧陸軍根本博中将が守ったという驚愕の事実があった。

根本博は元日本陸軍北志那方面軍司令官であった。8月15日の玉音放送の後、武装解除の命令が出たが拒絶した。上官の命令は絶対であり、従わないのは重大な軍紀違反である。しかし根本中将は内蒙古の在留邦人の命を救うため終戦後もソ連軍と激戦を展開し現地の軍人軍属、その家族約4万人を日本に引揚げさせた。一方、満州の関東軍は武装解除したため日本軍が遺棄した武器をソ連軍が接収し、その武器で多くの日本兵が殺され、シベリア抑留の憂目に逢った。

ソ連軍の侵攻を食止め、邦人救出に尽力する根本を、それまで敵であった国民党の蒋介石総統は黙認し攻撃するどころか援助してくれる場面もあった。また蒋介石は1943年のカイロ会談でルーズベルトが日本敗戦後、天皇を処刑すべしと主張したが、頑として反対した。後年この二つに根本は非常な恩義を感じたと語っている。

戦後、蒋介石が率いる国民党と毛沢東の共産党との国共内戦が勃発し、国民党は敗走を重ねた。当時、日本にも何とか国民党を助け、中国が共産化するのを防ぎたいという人士があり、根本自身もそう思っていた。そこで根本を現地に派遣する事で纏まった。しかし当時の占領下では日本人が外国に行くには密航しかない。よって台湾人や日本人の有志が台湾密航のため、金策に走るが思うように資金が集まらない。しかし時間がないので根本は家族には釣りに行くと言って 釣り竿とほんの少しの身の回りの品を持って鶴川の自宅を出た。

当初博多からの予定であったが、船の調達が上手く行かず、急遽宮崎からの出航になった。船といってもオンボロのポンポン船しか無い。昭和24年6月(1949)、夜陰に乗じて船出したが機関が故障したり、船底に浸水したりで、 まさしく命がけの台湾行であったが14日後無事、基隆に到着した。しかし怪しげな密入国者一団と見做され投獄される。二週間後根本の素性が知れ、四年ぶりに後蒋介石と会見出来た。

蒋介石は根本を信頼し、国共内戦の作戦参謀顧問を依頼する。その時点で国民党は上海、重慶も放棄し敗走を続け、最後の拠点は厦門のみとなった。根本は早速現地に赴き、調査を開始する。しかし当時の戦力では勝てる見込みがなく、食糧の自給も無理と判断した根本は厦門を捨て、沖合の金門島で敵を迎え撃つ事にした。厦門での抵抗で時間を稼ぎ、その間、塹壕を掘り補給路を整備し、地元住民に塁が及ばないよう細心の注意を払った。

10月24日ついに数百隻のジャンクに分乗した約3万の共産党軍が侵攻してきた。しかし共産党軍は連戦の勝利で油断があったためか根本の作戦通り、すり鉢型の海岸に誘い込まれ、周囲から攻撃により多くの戦力を失った。また敗走できないよう塹壕に隠れていた兵隊が敵の船を焼き払った。 その後金門島は地下要塞化を完成し朝鮮戦争で米軍が台湾海峡を封鎖したため、共産党軍の海上侵攻は不可能となった。暫く放火が飛び交ったが金門島と台湾は守られた。

根本が台湾に渡った事はGHQの知る事となり当時の国会でも取り上げられた。また戦後、軍人への反感が強まっていた新聞、雑誌がかなりのバッシングを行った。世間の厳しい目に晒された留守家族には、このためか何の保証も、援助もされなかった。

三年後根本は帰国した。羽田空港で航空機から降り立った時の写真が残っているが、右手にはしっかり釣竿が握られていた。羽田での記者会見で「終戦時百万の将兵を無事帰国させて下さった蒋介石総統に日本人の一人として万分の一の恩返しをした。」と語った。また現地では助言はしたが「前線に出て部隊の指揮をとったりしたことはない。」とはぐらかし金門島戦には一切ふれていない。確かに根本は作戦を立案したが部隊を指揮したのは国民党軍の将校であった。

平成21年(2009)この地で戦役60周年記念式典が開催されたが当時の馬英九総統は根本の貢献に言及しなかった。かつての敵国である日本人の手助けを得て国民党軍が勝利したとは言えない面子があったからだと思われる。 このように殆ど抹殺されかけていた根本の事績を大変な調査、取材活動を重ね、記録に留めてくれた著者には頭が下がる思いがする。是非本書の一読をお勧めする。(第19回山本七平賞受賞)

正しいFUCKの使い方/MADSAKI監修

最近のアメリカ映画を見ていると、セリフの中にしょっちゅう”fuck”が出てきます。戦争映画だとセリフはそればっかりという感じです。少なくともかつてのオードリー・ヘップバーンの映画には出てきませんでした。”fuck”は新しい言葉のような気がしてましたが、20世紀の始めから使われていたようです。語源を調べてみましたが諸説あり、どれも無理やりのこじつけという感じで、はっきりしません。まあ、俗語ですからやむえないところです。

“fuck”のような言葉は学校では習いませんし、英検やTOEICにも出てきません。しかし本書により”fuck”のみならず”shit”, “damn”, “hell”の正しい用法も学べます。これらはどれもイケナイ言葉ですが、その程度がかなり違うようです。本書では危険度を以下のように分類しています。しかし、昔イケナイ言葉だと習った”hell”がこの表では「一般的かも」と評価されています。時代の流れでしょうか?

“fuck”は本来の性交という意味以外に様々な用法があります。
⦿ 動詞として;
Are you fucking with me?/あんた、私のことバカにしてんの?
Don’t fuck it over./しくじるなよ
Don’t fuck me over./なめんなよ
Do me a favor and just shut the fuck up for the fuck’s sake./お願いだから黙っといてくれ
⦿ 形容詞の強調として;
This pizza is fucking delicious./このピザは超おいしい
This place looks so fucking familiar./この場所はとても良く知っている
⦿ 形容詞自体に入れて;
delicious –> deli-fucking-licious/超おいしい
fantastic –> fan-fucking-tastic/超すてき
incredible –> in-fucking-credible/信じらんなーい
⦿ 疑問文に入れて;
What the fuck are you doing here?/いったい、お前はここで何をやっているんだ
Where the fuck are you going?/いったい、お前はどこにいくんだ?
Who the fuck are you?/いったい、お前は誰なんだ

“fuck”が世界中で広く使われるようになった一つの要因は映画”Woodstock”の影響があると思います。Country Joe & the FISHのリーダーであるCountry Joe McDonaldが歌い始める前に観客に叫ぶと会場全体が反応しました。
Give me an “F”・・・・・・ “F”!!
Give me a ”U”・・・・・・・”U”!!
Give me a “C”・・・・・・・ “C”!!
Give me a ”K”・・・・・・・”K”!!
What’s that spell?・・・・・FUCK!!
What’s that spell?・・・・・FUCK!!
・・・・・・・・・

映像でご確認ください、30万人の観客が一斉にです。かなりの迫力です。
これ、英語だからボヤっと聞いてられますが、日本語の四文字言葉でやったらどうでしょう?
余談ですが、今年はウッドストック50周年です。40周年の時は結構盛り上がったんですが、今年は何の動きもありません。もうみんな忘れたという事でしょうか。

I-feel-like-I’m-fixin’-to-die rag / Country Joe McDonald

画面にカラオケのように歌詞が出てきますので、その部分だけ訳してみました。

And it’s one, two, three/それで、1,2,3
What are we fighting for?/僕らは何のために戦っているのか?
Don’t ask me, (I) don’t give a damn/僕に聞かないでくれ、僕は罵りはしない
Next stop is Vietnam;/次はベトナムだ
And it’s five, six, seven/それで、5,6,7
Open up the pearly gates/天国の門を開けろ
Well there ain’t no time to wonder why/そう、なんでだろうなんて考えている暇はない
Whoopee! we’re all gonna die/イェイ!僕らはみんな死ぬんだ

【narration】
Listen people I don’t know how you expect to ever stop the war/みんな聞いてくれ 僕は君たちがどのように、なんとかして戦争を止める事を期待しているかは分からない
If you can’t sing any better than that/もし、君達がそれ以上上手く歌えないなら
There’s about 300,000 of you fucker out there/此処には約30万人の君たち阿保がいる
I want you to start singin’/僕は君たちに歌い始めて欲しい
Come on/さあ

Now come on mothers throughout the land/さて、国中のお母さんたち
Pack your boys off to Viet Nam/急いで君の息子達をべトナムへ送り出してくれ
C’mon fathers don’t hesitate/さあ、お父さんたち躊躇しないで
Send your sons off before it’s too late/あなたの息子を手遅れになる前に送り出してくれ
Be the first one on your block/あなたの地区の一番で
To have your boy come home in a box/あなたの息子が箱に入って帰って来られるように
Alright/オーライ

この歌についてCountry Joe McDonaldのインタビューが残っています。これによると舞台に上がって二曲歌ったが、聴衆が聞いてくれず全然ウケない。そこで一旦舞台から降りてマネジャーに FISH Cheerをやって良いかと聞いた。彼は普段から舞台に上がって歌う前に Give me an F, Give me an I, S, H, What’s that spell FISH!とやって盛り上げていたようで、これをFISH Cheerと呼んでいた。やって良いかと聞かれたマネジャーは当然FISHだと思ってOKしたら実はFUCKだった。これが30万人の大合唱となりました。

ベトナム戦争の頃の米国は徴兵制でした。当時の若者たちはひょっとしたら自分もベトナムに連れて行かれて死んでしまうんぢゃないか、というウッスラとした恐怖感と不安が蔓延しており、40万人(主催者発表)の若者たちがウッドストックにそのはけ口を求めて集まって来たんだと思います。未だに語り継がれるここでのジミ・ヘンドリックスのギターによる歪んだ米国国歌の演奏がその頃の彼らの心情を如実に表していたように思います。
尚、本書にはご丁寧にもCDがついています。これを聞いてFUCKの正しい使い方を身に付けてください。

楽園のカンヴァス/原田マハ著

この小説は前から気になっていたが、やっと新潮文庫で読むことができた。著者は岡山生まれで子供のころは大原美術館が遊び場だったようだ。早大二文美術史科卒業後、森ビル美術館設立に関わり、この間MoMA(ニューヨーク近代美術館)で半年研修を受けた経験がある。小説の舞台は大原美術館、 MoMA、スイスのバーゼルと国際的に展開する。

早川織絵は米国で生まれ、パリで美術史を研究し博士号を取得。当時若きルソー研究家として学会で注目されていた。仏人と結婚し一児を設けたが、離婚し倉敷の実家に戻って大原美術館の監視員を勤めている。 1983年 、MoMAのアシスタント・キュレータのティム・ブラウンはアンリ・ルソー展の企画助手をしていた。二人はバーゼル在住の謎の大コレクター、バイラーが所蔵するルソー作「夢をみた」の真贋鑑定を依頼される。「夢をみた」はルソーの代表作である「夢」(表紙絵)に酷似している大作であるが、文献には現れていない。バイラーはこの二人をバーゼルの屋敷に招き、一週間滞在させる。初日に「夢をみた」を見るがそれ以降は一週間かけて、ある小説を読み、その内容から七日目に講評を行う。バイラーが満足する講評を行った方に、その絵のハンドリング・ライトを委ねる。もし、そうなれば莫大な利益を得る可能性もある。

小説の中で小説を読むという仕掛けが面白い。その小説にはルソーとピカソの交友と絵の謎に関するヒントが描かれており、この小説の中の謎と現実の謎が交錯する。また、インターポールやバイラー自身の謎もあり、日本人が書いたミステリーとは思えない面白さがある。そして、最後は意外にもハッピー・エンド。

絵画は音楽や文学と違って100億円を超える値が付くものもあり、昔から盗難や贋作事件が多い。そんな事件を扱った美術ミステリーは世界中で小説や映画になっているが、解説の高階秀爾(大原美術館長)は「これまでに書かれたどんな美術ミステリーとも違う」と述べている。 殺人事件が起こるわけでは無し、派手な秘宝争奪戦が演じられるのでもないが、その謎の解明を核として豊かな物語を紡ぎだす筆力に唸らされた、と激賞している。

崩壊の森/本城雅人著

学生時代にロシア語を学んだ縁で土井垣侑(どいがきたすく)は東洋新聞ロシア特派員としてモスクワに赴任した。東洋新聞のモデルは産経新聞である。後書きで著者は元産経新聞ロシア特派員に取材し、当時の産経新聞記事を参考にしたとしている。

土井垣が赴任したのは昭和62年(1987)、チェルノブイリ事故後1年。それから平成3年(1991) 12月25日、ゴルバチョフ大統領がソ連邦消滅を発表する日まで、昼夜を問わず取材活動を続け、現地の生の声を拾うべく毎夜のようにバーでロシア人が心を開いて語ってくれるまでウォッカを呷り続ける。当時のロシアは言論、報道の自由は制限されており赴任当初は写真電送機もFAXも無かったので検閲、盗聴を避けるため、テレックスでローマ字原稿を送っていたようだ。

ソ連崩壊への段階でお約束の土井垣のロマンスがあり、スパイだった美人実業家、なんか胡散臭いけどしっかりしているロシア人、ソ連高官との交際等々から平成2年(1990)2月2日、共産党の独裁放棄をスプークする。同8月18日、ゴルバチョフがバカンスで不在の隙を狙ってクーデタが発生し、新婚の妻と外国人アパートから非難した。

ソ連崩壊までの数年間がノンフィクションで繋がっており、そこに土井垣の上司との葛藤、悩み、そして探偵小説的なスリルが相まってスピード感がある。全てが事実ではないとはいえ、特派員の仕事の厳しさが良く分かり、良質のエンタテインメントと感じた。ストーリーは特派員の目で進行するが、欲を言えばソ連政権内部の様子ももう少し書いてもらえると一層面白く感じられたかもしれない。

話は変わるが、先日ネットでウクライナから留学しているナザレンコ・アンドレーさんの講演を見た。ソ連邦が崩壊しウクライナ共和国は独立した。しかし、ソ連がロシアとなってもその本質は変わらず、ウクライナ人の浅慮によって、平成26年(2014)にクリミア侵攻を許し、今なお戦火は止んでいない。この現状を披露してくれた彼の講演は我々に考えさせるものがある。約7分の講演ですので、是非聞いてみてください。


経済で読み解く日本史❸江戸時代/上念司

日本史が高校で必修でなく(先進国の高校で自国の歴史が必修で無いのは日本だけ)自分はまともに日本史を勉強したことが無い。しかし歴史には興味がある。本書は人間の行動を縛る「銭」すなわち経済の動きを主軸にした新しい日本史である。経済の専門書に同様の論文は多々ありそうだが私のような素人にも分かるように平易に解説してくれてます。

本シリーズは文庫版の5分冊になっており
第1巻<室町・戦国時代>
第2巻<安土・桃山時代>
第3巻<江戸時代>
第4巻<明治時代>
第5巻<大正・昭和時代>

第1巻から読み始めるべきなんでしょうが、まず落語を通して馴染みの深い第3巻<江戸時代> から始めてみました。

当時は勿論経済学の理論は無く江戸時代の約260年間、幕府及び諸大名は色々な試行錯誤を繰り返し、成功と失敗を繰り返してきた。これらの結果を纏めると
●世の中はモノとお金のバランスによって成り立っている。
●お金が不足すればデフレになり、景気が悪くなる。
●景気が悪くなると普段は見向きもされない危険な思想に人々は救済を求める。

江戸時代初期の国家予算は約3,000万石であったが、幕府の天領での税収は400万石しかなかった。不足分を埋めるため、家康は全国の金山、銀山を手中に収めた。三大将軍家光までは独占した金銀を浪費し、幕藩体制を強固なものにした。教科書では浪費はイケナイ事となっているが、経済は発展し、八代将軍吉宗の頃に農業生産量はピークに達した。しかし、それ以降は金山、銀山を掘りつくしてしまい、財源不足が顕在化してきた。要するに税収を幕府が一括して徴収する中央集権体制になっていなかったのが根本的な問題であった。

その後幕府と諸大名は常に財政難と戦っていた。例えば幕府の財政難を克服するため改鋳が行われた。これは小判二枚を溶かして混ぜ物を加え、小判三枚にする。教科書ではイケナイ事だとされているが、これで幕府のお金の量が1.5倍になったので好景気となった。消費も喚起され米や米以外の作物も増収となった。しかし、享保の改革、寛政の改革等の緊縮財政政策によって不況になる。それ以降、著者云う処の「緊張と緩和」の繰り返しであった。

江戸も中期以降になると武士より町人の方が財力が豊かになる。幕府は治山治水、インフラ整備等の公共事業に掛かる費用を諸大名に拠出させるようになるが、大名とて火の車。いやいやながらも借金で賄うしかない。しかし、借金踏み倒しは頻繁に発生し、特に肥後の細川様は借金棒引きを繰り返し、信用を失ったようである。

江戸時代も末期になってくると開国を求める諸外国が日本に接近してくる。財政難による国難は開国を迫る諸外国が悪いという考えから、攘夷という思想が現れる。最後は開国せざるを得ず、明治維新となるが諸大名は借金が棒引き出来るので、廃藩置県という荒療治を受け入れたのではないだろうか。

その他薩長同盟も経済の観点から面白く解説されています。教科書では江戸時代は農民、町民が虐げられていた暗黒時代だと言われているが、実際には高度な通貨制度も整備され、町人が力を付け、軍事力も十分で外国に比べてもかなり良い状況だったのではないでしょうか?

現代でも借金はイケナイ、浪費はイケナイとして財務省主導の緊縮財政論がマスコミで流布されているが、景気は緊縮財政時に不況になっており、著者は現代においても緊縮財政ではデフレから脱却できないと云いたいのだと思います。

悪妻盆に帰らず、日本語ごっこ/森真紀著

最近アマゾンで本を買うと、これまでの購入履歴から、お勧め本の広告が出てくる。なんか自分の性癖を読まれているようでちょっとヤな感じがする反面、知らなかった面白そうな本が出て来て嬉しい事もある。この二冊はアマゾン君が私にはこれ位が丁度良いだろうと出してきたので、その技にパックリ嵌ってポチッとしてしまいました。内容は単純で、諺のもじりというかパロディを並べ、そのパロディに説明とか小話とかが添えてある、只それだけ。

一冊目の「悪妻盆に帰らず」に「ことわざウラ世界『上』」と副題が付いているので、通常2冊目は 『中』又は 『下』になる筈ですが、実際には 「ことわざウラ世界『特上』」となっている。著者によれば『上』の次は『特上』が良さそうだろうという事でした。

各ことわざに付随する説明や小話が面白いんですが、全部紹介できませんので、直接的に意味が分かるものだけ選んで以下に羅列しました。

【上】
(1) 悪妻盆に帰らず
(覆水盆に返らず)
(2) 事実は小説よりいきなり
(事実は小説より奇なり)
(3) 先妻は忘れたころにやってくる
(天災は忘れた頃にやってくる)
(4) 金は万票の元
(風邪は万病の元)
(5) お家を建てれば暮らしが立たず
(あちらを立てれば、こちらが立たず)
(6) 方々に筆の誤り
(弘法も筆の誤り)
(7)「あの」で人を使う
(あごで人を使う)
(8) 身で身を洗う
(血で血を洗う)
(9) 二度足を踏む
(二の足を踏む)
(10) 万歳の陰に女あり
(犯罪の陰に女あり)
(11) 他人の親似
(他人の空似)
(12) 無くせ七癖
(無くて七癖)
(13) 待てば賄賂の日和あり
(待てば海路の日和あり)
(14) 嫁当面今の内
(夜目遠目傘の内)
(15) 人を見たら並ぼうと思え
(人を見たら泥棒と思え)
(16) あたしは明日の風邪をひく
(明日は明日の風が吹く)
(17) 恩を肌で返す
(恩を仇で返す)
(18) 鉄は熱いうちは持つな
(鉄は熱いうちに打て)
(19) 寄る年寄りには勝てぬ
(寄る年波には勝てぬ)
(20) 老婆は一日にして成らず
(ローマは一日にして成らず)
(21) 眠い奴ほど良く眠る
(悪い奴ほどよく眠る)
(22) 三人寄ればもんじゃ焼き
(三人寄れば文殊の知恵)

【特上】
(23) 人の家に戸はたてられぬ
(人の口に戸は立てられぬ)
(24) 墓は死ななきゃ入れない
(バカは死ななきゃ治らない)
(25) 正直者が中を見る
(正直者がバカを見る)
(26) 急がば渡れ
(急がば回れ)
(27) 触らずといえども遠からず
(当たらずと言えども遠からず)
(28) 渡る世間に銭はなし
(渡る世間に鬼はなし)
(29) 十を聞いて一を知る
(一を聞いて十を知る)

(1)は我が嫁そのもの。上手いと思うのは(2), (14), (15)。(8), (17), (27)のようなエロネタもあります。まあ、よくこんな本が出たもんだと思いますが、それを買う方もあんまり利巧とは言えないような気がしてきました。

今こそ韓国に謝ろう/百田尚樹著

昨今韓国の反日姿勢が勢いを増し、日本に対し数々の賠償や謝罪を要求しています。これに対し著者は韓国を怒らせたのは我々の責任であって、ここは素直に謝ろうと言っています。

では何を謝るのか。我々の祖父は韓国が日本に併合されていた35年間におびただしいお金と労力をつぎ込んで;
・学校を建てて子供たちを教育し
・工場やビルを建てて近代的産業を発達させ
・鉄道や電気を全国に張り巡らせ
・全国の禿山に植林し
・荒れ地を耕して耕地面積を倍にし
・朝鮮人の人口と平均寿命を二倍にした

「それは良い事をしたのでは…と思われるでしょうが、実はそれこそが問題だったのです。それらは私たちの父祖が、朝鮮人の意向も聞かずにやった事でした。私たちの父祖が良かれと思ってしたことは、彼らにとっては全て『余計なおせっかい』だったのです。」

ハード面だけでなく、ソフト面にも日本は余計なお節介をしています。「韓国は日本が朝鮮から『七つのものを奪った』と主張しています。俗に言われる『七奪』です。韓国の高校の指定教科書には次のように書かれています。『日本は韓国から大切な七つの物を奪った世界でも類を見ない悪辣な帝国主義者である』」。その七つとは「主権」「国王」「国語」「人名」「姓名」「土地」「資源」。しかし「七奪」は全て嘘です。例えば姓名。実際には日本人が戸籍を作り姓、すなわち名前を彼らに与えたのです。それまで名前の無かった女性にも名を与えました。また無理やり日本風の名前に変えさせたという誤解がありますが、当時の朝鮮総督府は日本風の名前を禁じています。しかし日本風の名前がカッコ良いと思って日本風にした人が沢山いたようです。本書は、その他も全てこの調子で韓国の嘘を論破しています。

このような日本人の「蛮行」により朝鮮はたった35年間で農業国から工業国へと転換し近代国家の仲間入りをしたといっても過言ではありません。もし日本が余計なお節介をしていなければ朝鮮半島は不潔で常に飢餓の恐怖に怯え、貨幣もない世界最貧国で、とても文明国とは言えない状況のままだったと思われます。

最近、本書がベストセラーになったことを聞きつけ、韓国の某出版社が韓国語訳出版を打診してきたそうです。中身を読みもせず書名を鵜呑みにして一儲けしようと思ったのでしょう。著者は韓国語訳を作り、ネットにアップして誰でも只で読めるようにしたいと言っています。日本人と韓国人にこの35年間に朝鮮半島で何があったのかを知ってもらうためです。

その他、最近厄介なのが「ウリジナル」です。朝鮮語で自分を表すウリとオリジナルを交ぜて「韓国発祥」という意味にしています。例えば「茶道は韓国が発祥」、「華道も歌舞伎も韓国が発祥」。花見のシーズンになると必ず「染井吉野の発祥は韓国」と言い出します。これら全て根も葉も無い嘘で、日本人はまともに取り合おうとしません。しかし、これが問題なのです。「空手のルーツは韓国のテコンドー」という嘘をIOCへのロビー活動(実弾攻撃有)で執拗に刷り込んだため、IOCは韓国の言い分を認めました。東京オリンピックでは空手もテコンドーも五輪競技に採用されていますが、今後、空手かテコンドーかという選択になればオリジナルであるとIOCが認めたテコンドーが採用され、徐々に「空手のルーツはテコンドー」という嘘が国際常識になってしまいます。こんな下らんと思う事でもいちいち反論していかなければなりません。

韓国とは、こんな厄介な国です。彼らの言うことは従軍慰安婦にしても徴用工にしても全部嘘です。著者の言うとおり「そしてさらば」と言いましょう。本書は文庫版で定価694円+税。お買い得です。


パスタぎらい/ヤマザキマリ著

洋食で何料理が好きですか?と訊かれたらイタリア料理と答える人が多いんぢゃないでしょうか。私もそうです。何故かと考えると昔喫茶店でシャカシャカとパルメザンチーズを掛けて飽きるほど食べたスパゲッティ(ナポリタンかミートソース)の記憶からでしょうか。余談ですが、イタリアにはあの丸い緑の筒に入ったパルメザンチーズというものは無く、著者は一時帰国からイタリアに戻る度に大量に買って帰るそうです。

ヤマザキマリ氏は17歳の時にフィレンツェに留学し、今年で通算35年になるそうです。その間、映画にもなった「テルマエ・ロマエ」が大ヒットし、一躍有名漫画作家になりました。彼女は貧乏画学生時代、ニンニク、塩胡椒、鷹の爪をオリーブオイルで和えただけの「アーリオ・オリエ・エ・ペペロンチーノ」というスパゲッティばかり食べていたそうです。材料費は20~30円。これに飽きた時は思い切って50円位出してトマトの水煮缶を買ってトマト仕立てにする。「フィレンツェに留学していた11年の間に、おそらくわたしは一生分のパスタを食べてしまったのかもしれない…」。パスタぎらいはこれが原因のようです。

イタリア料理と言えばオリーブ油。これを切らすと台所はパニック。慌てて近所のスーパーで買ってきても事件は解決しません。各家庭にはそれぞれ御用達のオリーブ油の味があり、違う種類では家族は満足できないようです。ちなみに小皿にオリーブオイルを入れ、パンに付けて食べているのを最近良く見かけますが、本来あれはオリーブ油のテイスティングなんだそうです。

ワインも当然地元産。「ポルトガルに暮らしていた時は、近所の酒屋やスーパーマーケットの売り場に置かれていた八割が、ポルトガル産のワインだった」。スペインのワインを飲んでみたくなり、それを買おうとしたら、ポルトガルに居るのにスペインのワインを飲むなと店のオヤジに叱られた。これはイタリアでも同じようです。

チーズもワイン同様その地域産のものしかなかなか手に入らない。子供の頃はチーズが嫌いだったが14歳で初めてフランスに行った時に臭いも味も強烈なチーズを食べさせられて卒倒しそうになった。あちこち訪れた所で地元のチーズを食べさせられ、今ではかなりきついチーズも平気で食べられるようになったそうです。「こうした経験を踏まえて考えてみると、美味しいと思えないものを無理やり食べるところから、『味覚の外交力』が始まり、寛容性が生まれるのかもしれない。」

イタリアのパンは美味しくないと言っています。一番おいしいのは日本のパン。イタリアには「フォッカチャ」というイースト菌で発酵させない薄く平たいパンがあり、これには塩気があり、表面にオリーブオイルが染み出したりして結構おいしいそうです。ピッツァはインドや中東で食べられている平たいパンやフォッカチャに具をのせて焼いたものです。私がイタリアに行った時にピザを注文したら、薄い生地で六等分に切れていません。周りの客を見るとナイフとフォークで器用に食べていました。彼らは具材の乗った中心だけを食べるので、縁はいらないんだそうです。尚、生地が厚いピッツァは貧しい地域で作られ、貧しいシチリア移民がアメリカに持ち込んだという説があります。

イタリア料理は日本人にとってはフランス程ではないにせよ、少々高級感がありますが、イタリアの食文化は非常に保守的です。日本でも地方によって独特の味噌醤油文化があり、地元の人がそれに固執しているのと同じ感覚なんでしょう。著者が一時帰国した時「貧乏パスタ」が千円以上で周りはワイングラスの足を持ってクルクル回しているのを見て、かなりの違和感を覚えたようです。それに比べ 何でも貪欲に食べる日本人はイタリア人に比べて「味覚の外交力」が強いといえそうです。これ以外に私が知りたかった欧米でのモツ料理についても面白い話がありました。

すごい言い訳!/中川越著

著者は文豪の手紙から言い訳を選び出し、そのいくつかを紹介しています。言い訳とは何かという事を著者は明確にしてはいませんが、この本から纏めると「有言不実行を詫びながら、原因を他に転嫁し、相手に自分は(あんまり)悪くないと思わせる。」というところでしょうか。

第一章の「男と女の恋の言い訳」では二股疑惑をごまかしたり、女と絶縁したり、と色々ありますが詳細な事情が分からないので、何とも言えません。第二章「お金にまつわる苦しい言い訳」では金を借りる、或いは借りているという立場が明確なので、言い訳の苦しさが際立ちます。しかしながら皆さん卑屈になっていないところが素晴らしい。例えば武者小路実篤の金を借りる手紙です。

用事だけ書く、実は相変らず貧乏神がとついているので僕が大事にしていたロダンのスフィンクスを手放そうと思うのだが 中々良い買い手が見つからないので、君には拝借した金があるのでたのみ憎いのだが 七、八百円に売りたいと思っているのだが君に前のは拝借したことにして 五百円で良かったら買ってもらいたいのだ 千円でも僕は売りたくなかったのだが今の場合そう云ってはいられないのだ。

これ意味分かりますか?「スフィンクス」はブロンズ像でこれを五百円で買ってくれと言っています。しかも、以前の借金は返す気はありません。さらに本来は千円以上の「スフィンクス」を特にあなたに五百円で譲りますのでお買い得ですよと恩を着せています。要するに 悪いのは貧乏神なんで、僕ぢゃないんですと。何でも人のせいにしなくてはいけません。

宮沢賢治は親に借金の手紙を書いています。長いので引用しませんが「中に泥が入ったので靴を買った、毛布をつい二枚買ってしまった、背中がほころびたので普段着を買った、芝居も見に行った、本も買った、音楽やタイプ教室へ通った、だから金が無い。」と訴えています。この時賢治三十歳。 いい加減自立する年です。賢治の場合は相手が親という事もあり、余計な言辞を弄することなく、金が無い理由を率直に羅列しています。しょうがない息子だなあと思わせるにはこの方が良いようです。その著作から清貧の塊のように思える賢治も実態はかなり違っていたようです。

第六章「『文豪あるある』の言い訳」にパクってみたくなる一文がありました。

小生が心中は狂乱せり筆頭は混雑せり貴兄は気を落ち着けて読んで呉れたまえ

正岡子規が病床から門下生に、自分の後継は河東碧梧桐でなく高浜虚子だと指名し本人にそう伝えたにも関わらず、進歩が無く失望した、という手紙の書きだしが上の引用文です。まず、こう書いてから続ければどんな酷いことも書けてしまうような気がします。自分が遺書を書くときはこれで始めましょう。

同じ章に志賀直哉の完璧な言い訳がありました。一度書くと約束した原稿の断り状です。

拝呈 岡倉天心さんの事何か書くよう朝日の斎藤君を通してお約束致しましたが精神的にも体力的にもどうしてもペンを握る気分にならず甚だ申訳なく思いますが違約お許し頂きたく思います。 敬具

この時志賀直哉81歳。著者によれば文中「どうしても」が決め手になって承諾されたようです。このように「どうしても」も言い訳に必要な強力な武器です。志賀直哉は31歳の時に当時47歳だった夏目漱石から朝日新聞への連載小説を依頼され、一度は引き受けながら断った事があったそうです。 その詫び状は長いので引用しませんが、 この時も「どうしても」が威力を発揮したようです。これについて後日漱石が同僚に送った手紙が残っています。

志賀の断り方は道徳上不都合で小生も全く面喰いましたが 芸術上の立場からいうと至極尤もです。今迄愛した女が急に厭になったのを強いて愛したふりで交際しろと傍からいうのは少々残酷にも思われます。

漱石が「 芸術上の立場からいうと至極尤もです。 」という意味不明の理屈で志賀直哉の言い訳を大目に見てやっています。しかし厭になった女を愛したふりで交際しろ云々というのは一体なんなんでしょうか?

第七章は「エクスキューズの達人・夏目漱石の言い訳」と題して漱石の色々な言い訳が陳列されています。この中でちょっと面白いと思ったのは漱石47歳の時の手紙です。ある婦人が漱石宅を訪問したが漱石不在のため住所を残していきました。この頃は漱石絶頂期で非常に忙しかった筈ですが、この未知の女性に手紙を書いています。ちょっと長いが引用します。

こないだは御出で下さった処留守で失礼いたしました あなたは私の書物を愛読してくださるそうですが、感謝いたします、しかし、人の作物はよんで面白くても会うと存外いやなものです だから古人の書物が好きになるのです 私は御目にかかるのは構いませんが 御目にかかる価値のない男ですから それほど御希望でないならおやめなさい、それから私に会ってどうなさる御つもりですか ただ会うのですか 私は物質的には無論精神的にもあなたに利益を与える事は到底出来まいと思います 失礼ですが、あなた大変綺麗で読み易い字をお書きになります 私は此の通り乱暴で御推読を願います

忙しくて、その婦人に会うつもりがないなら手紙を書く必要は無い筈。字が上手い、とさり気無く褒めながら、もし実際に会って相手がガッカリした時の保険として予め「御目にかかる価値の無い男」などと書いています。これを受け取った婦人は漱石からの面会快諾通知と感じたのではないでしょうか?

一口に言い訳と言っても文豪の文章ですから、美文調であったり、詩歌のようであったり、或いは支離滅裂であったり、ととても面白い読み物になっています。これらを読めば言い訳のコツのようなものが分かってきます。他のせいにするだけでなく、さり気無く後で困らないように保険をかけておくのも必要です。著者は言い訳のノウハウ本を作ろうとしたようですが、私のように言い訳をする必要のない者にとっても非常に勉強になります。