不良役者/梅宮辰夫著

梅宮辰夫が亡くなったのは令和元年12月12日。この本は奥付に「2019年12月12日第一刷発行」とある。娘のアンナが12月12日以降最初にMXTVに出た時、この本は既に印刷済みで、父にサインをしてもらうため何冊か自宅に届けられていた、と語っていた。 自身の映画俳優人生と破天荒な交遊録を口述筆記したものであるが、不謹慎ながら間に合って良かった、という気がする。腰巻の裏表紙側には「俺が役者になった目的は次の4つ。いい女を抱くこと。いい酒を飲むこと。いい車に乗ること。きれいな海が見える一等地に家を構えること。」とある。最初の3つは当然とも思えるが、4つ目はやや意外で彼の家族に対するやさしさなんだろうと思う。

小学校4年で満州から引揚げ、水戸に定住。父は開業医で大学は医学部を受けるが失敗。やむなく日大法学部入学。昭和33年行きつけのゲイ寿司屋の勧めで受けた東映ニューフェイスに合格。当時の東映は京都撮影所での時代劇がメインで東京撮影所は添え物とも言われた現代劇。しかし大スターの多い時代劇俳優になろうという気はなく、ひたすら役者になった目的を追い求めて東京で現代劇を演じることにした。

そのころは毎晩銀座へ行く。当時、銀座には日活の石原裕次郎、小林旭、大映の勝新太郎、田宮二郎等の大スターが闊歩していた。しかし高倉健は酒を飲まず、鶴田浩二は倹約家とあって、東映のスターは余り出てこない。そこで、自分は東映の看板を背負って銀座のクラブに通った。勿論役者になった目的を達成するためだ。当時は今のように気の効いたホテルは無く、店がハネた後は女のアパートに行き、まず冷蔵庫の中を見る。新鮮な食品が揃い、飲物や調味料が整然と整理されていればよし、そうでなければ「評価の対象外」だった。

不良番長シリーズが当たり、仁義なき戦いの頃は一本当たり数百万のギャラを稼ぐ。当然のように銀座でモテまくり、複数の女性と付合うのは当り前。不良番長シリーズを撮っていた頃、新人女優の芸名を頼まれ、考えた末に当時一番気に入っていた銀座ホステスの源氏名を付けた。すると本人が何かお礼がしたいと言う。そこで一回寝たら数日後股間がやばい。その話を聞いた山城新伍が俺もやばいと言う。例の新人女優を抱いたらしい。「えっ?なんでおまえがヤッたんだよ」と問い詰めると、迫ってみたがラチがあかず「君の芸名は俺と辰ちゃんが一緒に考えたんだよ」という嘘でなんとかなったらしい。「もちろん俺も新伍も映画のゴッドファーザーのように、その新人女優の面倒を生涯にわたって見たわけじゃない(笑)」

昭和43年クラブ「姫」のホステスと結婚したが、半年で離婚。その後銀座の有名クラブに居たクラウディアを菅原文太から紹介され、美人で気立てもスタイルも良くすっかり気に入ってしまった。しかしホステスとは以前失敗していることもあり、母親は結婚に反対し絶対に見合いをさせると言う。仕方なく3年付き合ったクラウディアに見合いをすることになったので別れてくれと言うと「二号さんで良いから分かれないで。一週間に一度でもいい。会ってくれさえすれば良い。」彼女の言葉に胸を打たれ結婚したいと両親を説得するが猛反対。仕方なく家を出て彼女のアパートで同棲生活。この時アンナを身ごもる。これがスポーツ・ニッポンに素っ破抜かれ、昭和47年結婚した。

梅宮は何度もガンに犯されており、その都度克服してきた。そのためか、結婚すると夜の遊びはプッツリと止め撮影が終わると真っすぐ帰宅する毎日を送っていた。妻と娘との時間を大切にしたかったのだろう。「前略おふくろ様」の撮影の頃、銀座の京料理の板長から板前の手捌きを習うにつれて料理に興味が湧き、晩年は毎日5時半に起きてアンナの弁当を作っていた。

昭和の時代の映画スターの破天荒な暮らしぶり、エピソード満載で面白い。本人以外にも勝新太郎、若山富三郎、高倉健、山城新伍、松方弘樹、菅原文太等々の横顔が見える。特に高倉健の包茎話は初出であろう。 そんな映画スターが輝いていた時代の真っ只中で思い切り演じ、遊んだ梅宮は役者になる目的を全て実現したように思われる。しかし、アンナについてだけは自分の躾云々と悔恨の気持ちが見れとれた。

日本の「老後」の正体/高橋洋一著

時折、新聞、TV等のマスコミで「日本は1,000兆円を越える借金があり、このままでは破綻する。よって増税せざるをえない。」とか「少子高齢化が進みこのままでは年金制度が破綻する。よって現在年金掛金を払っている人は将来年金が貰えなくなる。」というような論説を見聞きするが、これらは嘘です。

著者は元大蔵官僚で現在は嘉悦大学教授。専門は数学で最近は「数量政策学者」と自称している。経済政策的にはリフレ(Reflation)派と呼ばれ、政府(財務省)や日銀の誤った経済政策を糾弾している。大蔵省在職時代、初めて日本国の貸借対照表を作り、現在でも引き継がれているので財務省のホームページを検索すれば誰でも見る事が出来る。

まず借金であるが、日本国が破綻するか否かは普通の企業と同様、その貸借対照表(バランスシート)を見れば見当が付く。日本銀行は日本国の子会社なので、連結すれば2017年度において日本国の純債務は約40兆円となり、殆ど問題ない。(但し、財務省ホームページの貸借対照表では日銀は連結されていない。)

本書180頁(2017年度)

年金は年金数理という理論で設計されている。これの肝は「その人が納めた保険料」=「その人が将来貰える給付額」。例えば20歳から65歳まで保険料を支払い、仮に平均寿命が80だとすると「その人が45年間納めた保険料の総額」=「その人が15年間で受け取る年金の総額」。よって平均寿命より長生きした人は得するが、早死にした人は損する事になる。(給付年齢前に亡くなった人が支払った保険料は年金支払いに繰り入れられる。)

内閣府の「高齢社会白書」によれば今後少子化が進展し、2020年には年金受給者一人を2.0人で、2040年には1.5人で支える事になる云々。よって、このまま少子化が進めば年金制度は破綻する事になる。しかし年金は人数ではなく、金額の問題である。保険金を支払う現役世代の減少率は0.5%/年程度であるから、この程度以上に賃金が増加すればそれに伴い保険料も増収となるで問題ない。 実際、アベノミクス開始以降失業率が低下し、労働力人口は増えており総賃金は増加している。一方最近、賃金は上がってない、上がるどころか下がっていると平均賃金を見て言う人がいるが、以下の様に平均賃金でみると間違いやすい。

昨年
Aさん  失業中 月給0円
Bさん  月給20万円 
Cさん  月給30万円     
この場合平均給与は(20+30)/2=25万円

今年
Aさん  仕事が見つかって 月給15万円
Bさん  少し賃上げして 月給22万円
Cさん  少し賃上げして 月給33万円 
この場合、平均給与は(15+22+33)/3=23.3万円 
三人とも今年の所得は増えているのに平均賃金は下がっている。

では、なぜ、誰がこのような誤った情報を流布するのか?まず第一に増税したい財務省。「社会保障」の不安を煽れば増税もやむなしという空気を醸成できる。金融機関も「年金が危ない」という考えが浸透すれば、さらなる投資や年金保険等の商品が売りやすくなる。実際、年金を受給しても2,000万円貯蓄が無いと危ないという説が世に出てから、金融商品の売り上げはかなり増えているようだ。

本書は数学の塊のようなマクロ経済学を出来るだけ分かりやすく説明するため、高橋先生が高校生と対話するという形式で構成されている。著者は常に定量的で、数値をグラフにして説明しているので分かりやすい。他にも財務省の嘘を糾す本やネット記事も多数あるが、本書は高校生相手という事で専門用語の意味、定義を丁寧に説明してくれている分だけ分かりやすい。(といっても難しいものは難しい)。本書では最後に私的年金の選択指南をしているが、イデコが良いという結論になっている。

小説と違い、新書の書名は編集者が決める事が多く、売らんがために老後の不安に対処するというような意味合いでこの書名を付けたと思われる。それは腰巻の惹句にも良く表れている。しかしながら本書の主眼はバブル崩壊以降、 所謂「失われた20年」の間、デフレが続き、経済成長が停滞したのは 政府(財務省)、日銀の政策の誤り である事を明確に指摘する事にある。

米中は順調に成長しているが、
日本は1995年以降停滞している。

2012年末の衆議院選挙で大勝した安倍首相はアベノミクス第一の矢として大規模金融緩和を実施するため、日銀総裁に黒田東彦氏、副総裁に岩田規久男氏を起用した。これに対し著者は「(中略)この日は、日本経済にとって歴史的転換点であり、私にとっても忘れられない日となった。日銀が本当の意味で変わった日になったからね(後略)」と喜びを率直に披歴している。アベノミクスを悪く言う人は多いが、定量的にきちんと見て行けばかなりの成果が出ていると言える。惜しむらくは10%の消費増税であった。

ヒマつぶしの作法/東海林さだお

東海林さだお氏は漫画家であるが、エッセイも多数上梓されており、過去のヒマつぶしに係るエッセイを集めたのが本書である。

言うまでも無い事であるが、「ヒマ(な状態)にしている」と「ヒマつぶしをしている」とは全く違う。本書では著者がこれまでに経験した数々の「ヒマつぶし」が紹介されている。ルンバ(掃除機)を眺める、釣り堀、洗濯、はとバス、ダンス、テニス、キャバレー、料理、ストリップ、熱海温泉等々。これらをかなり正確に記録し、得意のイラストも使って半笑い(或いは企まざるユーモア)溢れるエッセイに纏められている。チコちゃんに叱られる程度にボーっとしていては決して出来ない仕事である。

極め付きは温泉旅行である。「正調温泉一泊作法」というエッセイの冒頭を引用する。「『たまには温泉にでも行って、ノンビリしてくっか』誰しもそう思う。そう思って、出かけて行ってですね、一度でも《ああ、ノンビリした。楽しかった。いかった》と、帰って来たことがありますか。なんだかひたすらあわただしかった。あれもしたい、これもしたい、と、ウロウロしたけど、結局何もできなかった。ちっともいくなかった。というのが、ごく一般的な、いつわらざる感慨だと思う。(中略)それはなぜか。それは誰もが、″正しい温泉旅行のあり方″というものを認識していないからなのだ。つまり、″正しい温泉旅行の教典″がないからなのだ。」

そこで編集部の二名を加え三人で正しい温泉旅行の規範を作ることになった。まず、泊数であるが「全体をキリリとひきしめたい」との理由で一泊が正統と決定。これより「表温泉旅行道一泊派」を名乗ることにする。宿泊地は熱海、移動は新幹線。宿泊は「当然和風旅館、畳の間、浴衣、丹前、頭に手ぬぐい、廊下スリッパペタペタの世界が現出されなければならない」。この調子で教義がどんどん定まって行く。「しなければならないこと」は射的、浴衣スリッパピンポン、芸者、パチンコ、スマートボール、湯の町遊弋、マッサージ、お土産、ホテルのレビューショー。これらを満足できるのは「ホテル ニューフジヤ」。そしてホテルには午後5時に着かなければならない。

これらの教義を定め最終的に決定した作法は;
5時:ホテル到着
6時:入浴
7時:夕食
8時:外出(射的)
9時半:OSK日本歌劇団レビューショー
10時:芸者到着
12時半:マッサージ到着
1時半:就寝
翌朝7時:起床直ちに朝風呂
7時半:朝食+朝ビール

そして温泉一泊旅行の神髄を悟る。曰く「温泉一泊旅行の神髄は、実は朝風呂ではなく朝ビールであると。朝風呂は朝ビールに至る道程であったと。われわれは遂に一泊温泉の奥義を極めたのだ。『温泉一泊旅行といふは、朝ビールと見附けたり』」。少々補足すれば前夜の所業は朝風呂への、朝風呂は朝ビールへの道程/助走であったと。

ヒマつぶしはボーッとしていては成らず、日程を考え、段取りを考え、予算を考え、その他、諸事百般を頭に入れ、真面目に本気で取り組まなければならない。そうでなければ、後世に語り継がれるような立派なヒマつぶしを成就する事は出来ない。本書の教訓を肝に銘じて自身のヒマつぶし人生の参考としたい。

余談であるが、本書には腰巻の惹句にあるように、いとうせいこうとの対談(2019年夏収録)がある。私は、彼の髪型が変なので余り良い第一印象を持っていなかったが、本対談で披露された発想力は素晴らしいと感じた。「いとう 僕は物事をものすごく忘れるんです。そこでど忘れしたことを思い出したら、その喜びを筆ペンで書いて残すことにしたんです。(中略、サンドウィッチという言葉が出てこなかったとすると)それを後から見てなぜサンドウィッチが出てこなかったんだろうかと自問する。なぜそういうことが起きてしまったんだろうかと。サンドウィッチ伯爵に対しての何かが僕の中にあって抑圧しているとか。自分の弱点を趣味化したんです。」

この提案にショージくんは大いに賛同し、いつでも記録に留める事が出来るように矢立を持って歩くべきだ等々、話が随分広がっていった。確かに面白い試みである。年々歳々ど忘れ、特に人の名前が出てこなくなった自分としてはそれを記録して振り返るのは一つのヒマつぶしになりそうだ。但し、忘れたことを忘れてしまってはどうしようもないが。

ことわざアップデートBOOK/TOKYO MX「5時に夢中!」編

東京MXTV(9ch.)で月曜から金曜、午後5時から「5時に夢中」という番組がある。司会は月~木がふかわりょう、金曜日が原田龍二。日替わりのレギュラーコメンテーターと日替わりゲストが登場する。この番組は2005年に始まり、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブを世に出している。超売れっ子になったマツコもこの番組に恩義を感じているのか、安いギャラにも関わらず、毎週月曜日に出演している。

「ことわざアップデート」は人口に膾炙することわざを、今風にアップデートするという興味深い試みである。既に始まって5年を経過し、この間の作品を纏めたのが本書である。現在は毎週木曜日に「名人」岩井志麻子(作家)、「師範代」中瀬ゆかり(新潮社出版部長)、「見習い」ジョナサン(芸人)と視聴者の案を紹介し、その回のベストをふかわが選出する。最近の作品は下ネタが多く、TVではケラケラ笑いながら見ているが、それを文字として読むと結構エグイ。きついのは避けて作品のいくつかを引用する。

<2015>
● 溺れる者はワラをも掴む → 欲求不満な者は蒟蒻をも掴む
● 石橋を叩いて渡る → 警察にセコムする
● 泣きっ面のハチ → 金欠病に住民税
● 玉にキズ → フェラーリに5時夢ステッカー
● 花より団子 → ブラピよりカルビ
● 寝耳に水 → 窓の外にお兄さん
● 猫に小判 → ハゲにリンス

<2016>
● 水と油 → 港区と足立区
● 糠に釘 → ハゲにクシ
● 武士は食わねど高楊枝 → ブスはナンパされねどピンヒール
● 匙を投げる → 体重計を捨てる
● 触らぬ神に祟りなし → 発言しなけりゃスベリなし
● 風前の灯火 → 台風の前のビニ傘
● 軒を貸して母屋を取られる → 一口頂戴で皿ごといかれる

<2017>
● 井の中の蛙大海を知らず → 胃の中のカルビ体形を知らず
● 犬が西むきゃ尾は東 → 全裸で町出りゃ手は後ろ
● 虎の威を借る狐 → Lの衣(装)借りるとキツめ
● 賽は投げられた → パイは舐められた
● 藪をつついて蛇を出す → エゴサーチして涙出す
● 捨てる神あれば拾う神あり → 捨てるキー局あれば拾うMXあり
● 毒を喰らわば皿まで → 娘を喰らわば母まで

<2018>
● 雨降って地固まる → デキちゃって籍固まる
● 金持ち喧嘩せず → Gカップ胸寄せず
● 泥棒を見て縄をなう → ラブホに入って腹筋なう
● 破れ鍋に綴じ蓋 → 草食男子に肉食女子
● 一寸の虫にも五分の魂 → 無職にも曜日感覚
● 帯に短し襷に長し → セフレには重たし彼女には違うし
● 貰うものは夏も小袖 → 貰うものはハゲもカチューシャ

毎回結構な下ネタを出す回答者又は放送作家の才能には脱帽である。しかし、よくまあこんな本を出すなあと思う反面、予約して買う馬鹿もいるので、まあ、よしとしょう。

全くの余談であるが、例の原田龍二の黒のランクル事件が文春に出たのが5月30日(木)。翌31日(金)の5時に夢中は彼が司会。アシスタントはミッツ・マングローブ、レギュラーコメンテーターが中尾ミエ、ゲストがホリエモン。この3人で原田龍二に言訳をする暇も与えずイジリまわし、大笑い。翌週の6月5日(水)13時からのデイズ(ニッポン放送)は原田龍二担当でアシスタントはニッポン放送アナウンサーの東島衣里。東島は冒頭から、今回の件についてキチンとリスナーに説明して頂きます、とか、奥様にはどう報告されたんですか?等と詰問調で迫り、ついに原田龍二は泣いてしまう。東島アナは真面目で良いんだけれど原田を攻めているのを聞いても面白くもなんともない。これまで出てなかった話を引き出し、5時に夢中の様に笑いに変えてしまう度量が欲しかった。

絵を見る技術/秋田麻早子著

映画を見たり、小説を読んだりするのと違って絵は2秒あれば見られる、或いは見たことになる。逆に一枚の絵を何時間も見ている人もあれば、何日も絵の前に陣取って模写している人もいる。絵の見方は色々あると思うが、本書はその基本を分かりやすく説明している。腰巻にもあるように「名画の構造を読み解く」事が目的である。

少し長いが、序章の一部を引用します。「(前略)理由はなんであれ、歴史的名画をちゃんと見られるようになりたい、と思う人が増えているのは確かでしょう。しかしながら絵を好きなように見てもいいんですよと言われても、どこから手をつけていいのか分からないものです。これで合っているのだろうか、と不安な気持ちにもなるでしょう。反対に、絵の背景知識を深めないと絵はよく分からない、と言われると、今度はたくさん勉強しなくてはと思ってしまいます。一方は感覚に頼る方法で、もう一方は知識に頼る方法。もちろん、どちらも必要なことは確かですが、センスに自信が無く、知識が僅かしかなくても、絵をちゃんと見る方法はないものでしょうか。」

この文は正しく我々素人の絵に対する思いを代弁しています。この問いに対する著者の回答は「『好きなように見る』と『知識を持って見る』の間にあるものはなんでしょう。それは『観察』です」。要するに漫然と「見る」のではなく「観察」せよと。「観察」とは目的を持って「見る」事であり、「観察」するためには「スキーム(見るための枠組み)」が必要である。本書はこのスキームを多くの名画のカラー図版を使って分かりやすく説明してくれます。

第1章 「この絵の主役はどこ?」-フォーカルポイント
    まず絵の主役をさがす。
第2章 「名画が人の目をとらえて放さないのはなぜか?」-経路の探し方
    画面の中の視線誘導。
第3章 「『この絵はバランスがいい』ってどういうこと?」-バランスの見方
    構造線を見つける。
第4章 「なぜその色なのか?」-絵具と色の秘密
    色の見方
第5章 「名画の裏に構造あり」-構図と比例
    構図の定石を知る。
第6章 「だから名画は名画なんです」-統一感
    絵の表面的な特徴

私には「視線誘導」、「構造線」、「構図」の章を興味深く感じた。絵を見ると色味やタッチに目を奪われがちで、構造線と構図による視線誘導には殆ど意識がなかった。 構造線は絵のバランスを決める骨組みのようなものでボッティチェリからモンドリアンまで、これで説明されているのには少々驚いた。 構図は言うまでもなくルネサンス以前から多くの研究があり、それに加えて黄金比に代表される矩形の比例、比率の研究が相まって近代絵画にその成果が上手く取り入れられている事が分かる。

我々が絵を見る際に何をどう見れば良いか、という指針が非常に分かりやすく説明されており、入門書としては最適だと思われる。これまでこういう本が無かったためか良く売れているそうです。

美しき愚かものたちのタブロー/原田マハ著

これが出た時は余り関心がなかった。しかし直木賞候補になったと聞いて急に興味が湧いた。全く権威に弱い小市民である。腰巻に書いてある通り、松方コレクションの成立事情を追った事実に基づく小説である。

川崎造船所の社長である松方幸次郎は第一次大戦で船が不足することを見越し、船主からの発注前に予め船を作って在庫とする(ストックボート)ビジネスを発案した。通常船舶の建造には1~2年程度かかるが、在庫があれば急の需要に応えられる。しかし、必ず売れる確証は無くリスクは大きい。役員会が反対したのも当然である。しかし、これが大当たりした。船が不足し、市場の値が吊り上がる。元値の6~10倍で売れた。この儲けを美術品購入に充てたのが、松方コレクションの原型となった。

松方は美術に関する造詣は無い。しかし西洋美術館を建てたい、若い人に本物の西洋美術を見せてやりたい、との一念からロンドン、パリで西洋美術品と海外に流失した浮世絵を買い漁った。西洋絵画だけでも3,000点以上と言われる。 しかし、第二次世界大戦のドサクサで全てを日本に送ることが出来ず、フランスの田舎に疎開させたが、敗戦後その大部分が仏政府に接収された。

1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は独立を回復した。その翌年、仏政府と松方コレクションの返還交渉を行うため美術史家の田代と文部省の役人である雨宮の二人がフランスに乗込むところから物語は始まる。仏政府は大部分の返還には応じたが、コレクションの核となる20点については拒否した。全20点の返還は無理と考えた田代は次の3点の返還を強く主張した。ゴッホの「アルルの寝室」、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」、モネの「睡蓮、柳の反映」。交渉の結果ゴッホ以外は返還された。しかし、モネはその後行方不明となる。

アルルの寝室/ゴッホ

2016年9月、フランスの美術館関係者がルーヴル美術館内でこれを発見した。上半部が大幅に棄損していたが約1年間掛けて日本で修復した。これらを、松方コレクションを展示するために 昭和34年(1959)に建設された国立西洋美術館にて開催された「松方コレクション展」でこの3作が同時に展示された。( 「アルルの寝室」はオルセー美術館蔵)。 モネの「睡蓮、柳の反映」 は約1年間かけた修復に大変なご苦労があったと思われるが、欠損部分が大きく、残念ながらモネの傑作を見ているという感慨は無かった。

松方の美術品購入は1921年から始まる。若き日の田代がアドバイザーとなって、ロンドン、パリの画商で次々に買い漁る。勿論画商の間で評判となり、次々に素晴らしい作品が提示される。松方は田代のアドバイスによって、見ずに買った絵もかなりあるようだ。また、現地大使館員の紹介でモネの自宅に2回赴き、本人から 「睡蓮、柳の反映」 を含め数点を直接買っている。絵を買い漁る派手な場面や松方の部下で元飛行機設計技師であった日置がフランスに侵攻したドイツからコレクションを守ろうと人生を掛けて奮闘した感動的場面もあり、面白い読み物であった。尚、松方がヨーロッパで美術品を買い漁る際、当時のドイツの潜水艦の設計図を入手するというミッションがあった、と言われているが、確かなことは不明である。

余談ではあるが、最近の研究でゴッホの 「アルルの寝室」 は製作した時と現在では色が違うという事が判明した。もう少し、調べてみたい。

パノニカ/ハナ・ロスチャイルド著 小田中裕次訳

1950,60年代のビ・バップや当時のモダン・ジャズを好きな人なら「ニカ男爵夫人」(キャサリン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド)という名前を一度は聞いたことがあるだろう。ニカはロスチャイルド家の一員で、文字通り深窓の令嬢であったが、1949年セロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に心を奪われ、1951年ニューヨークに移住した。その後、亡くなるまでセロニアス・モンクを始めとする当時のジャズメンを物心両面で支え続けた。もしニカがいなければジャズの名曲・名演の多くが生まれなかったと言っても過言ではない。

Kathleen Annie Pannonica (1913 – 88)
メキシコにて(34歳)

ロスチャイルド家の創始者であるマイアー・アムシェル (1744-1812)はドイツ・フランクフルトで唯一ユダヤ人の居住が許可された非常に狭く、汚い貧民窟で生まれ、常にキリスト教徒から差別されていた。彼はキリスト教徒の嫌がる金貸しを始め、1770年代には綿製品や穀物取引も始めた。その後10人の子供のうち、生き残った5人の息子をフランクフルト、ベニス、ロンドン、ナポリ、パリに送り出し、1820~1860年代にかけてヨーロッパにおけるロスチャイルド家の地歩を固めた。特にロンドンの二代目ネイサン・メイヤーはロスチャイルド家中興の祖であり、為替相場、債券取引市場を開設し、莫大な利益を上げた。ロスチャイルド家はその頃、既に富と権力の代名詞となっており、普仏戦争の戦費、英国のスエズ運河買収資金やポルトガルからのブラジル独立資金の調達などヨーロッパの歴史の中で数えきれない重要な役割を果たしている。また日本の日露戦争戦費調達にも関与している。余談ではあるが、彼らはフランスでワイン生産にも力を入れ、現在でもロスチャイルド(カタカナ表記でロートシルト)の名が付く高級ワインが販売されている。

ロスチャイルド家は英国とヨーロッパ各地に豪邸や城を所有していたが、ニカは英国の城で生まれた。ロスチャイルド家では男子は学校へ行くが女子は許されなかった。彼女は常に乳母、侍従、家庭教師に囲まれて過ごし、毎日規則正しい生活を送った。邸外に出ることは少なく、終日自室で過ごす事も多かった。お金を使った事も無く「一人では自分をどう世話して良いのか分からない」という生活だった。16歳になって始めて両親と夕食を共にする事を許された。フランスのシェフが高級な料理を作っていたが、一週間のメニューは決められており、余りの単調さにうんざりしたと述べている。

ニカが17歳になった夏(1930)、姉のリバティとフランス、オーストリア、ドイツ へお供を引き連れて出かけ、ヨーロッパ社交界にデビューした。現地紙は二人の動向を逐一報道した。令嬢姉妹はそれまで政治的な事を意識したことは無く、ドイツでヒトラーがユダヤ人を敵視していることをこの時初めて知った。ニカは19歳になって 良き伴侶を見つけるためロンドン社交界にデビューした。英紙、The Timesにパーティの参加者、ドレス、そのデザイナー等が連日詳報された。しかしニカは社交界で認められることに興味は無く、アメリカのジャズとミュージシャンに夢中だった。

ニカが22歳(1935)の時にロスチャイルド家親族の昼食会で出会った10歳年上のジュール・ド・コーニグズウォーター男爵に夢中になった。ジュールはニカをフランス、ドーヴィルの別荘に招待した。運転手と侍女が同行したもののニカにとっては初めての胸躍る海外一人旅であった。しかしこの時二人の相性に不安を感じたニカは姉のリバティに助言を受けるという名目で姉のいるニューヨークに向かった。真の目的はアメリカ音楽であった。当時のニューヨークはジャズだけでなく、前衛絵画、オペラ、文学と新しい波が興り、退屈なヨーロッパとは対照的であった。結局1935年9月、ニューヨークで挙式を行った。New York Timesは「億万長者ロスチャイルド家の令嬢が結婚」という見出しで詳細な記事を掲載した。

新婚旅行後彼らはパリで暮らし2人の子供を設けた。この頃ヒトラーの台頭でロスチャイルド家といえどもユダヤ人差別受けていた。1939年ジュールが出征したが、彼女はパリに留まり、パリが陥落し、独軍がパリに到着する直前迄、難民を屋敷に受け入れていた。ニカは若いころ自動車の運転と航空機の操縦を会得していたが、飛行機の油を買える状況ではなく、最後の船で多くの難民と共に英国へ帰還した。

ジュールはド・ゴールの呼びかけに応え自由フランス軍に志願した。ニカもジュールの後を追って自由フランス軍に志願した。当時は女性を兵士として前線に送る事は許されなかったが、ニカは命令を無視して夫のいるアフリカへ向かった。アフリカではマラリアに罹ったが回復し、夫との再会を果たした。現地でニカは軍人として爆撃機に搭乗していたそうだ。当時ヒトラーはユダヤ人殲滅を目指し、多くのユダヤ人を収容所に送り込んでいた。ロスチャイルド家でも何人かが収容所で殺されている。著者はヒトラーの反ユダヤの目的はロスチャイルド家の殲滅だと言っている。フランスのロスチャイルド家の多くの財産、美術品はナチスとフランスビィシー政権により没収された。

戦後、夫のジュールは外交官としてノルウェーに赴任。その後メキシコが任地となり移住した。ニカと厳格な夫との結婚生活は破綻に向かっていたが、ニカはメキシコに行けばニューヨークへ出かけやすくなるだろうと考えていた。1949年ニカはニューヨークからの帰途、旧知のピアニストであるテディ・ウィルソンからセロニアス・モンクのレコードを聞かせてもらった。彼女は衝撃を受け、20回続けて聞いたという。(しかし、当時の批評家はモンクのピアノを酷評していた。) このため帰りの飛行機に乗り遅れ家には帰らなかった。。

ニカはニューヨーク・セントラルパークに接するスタンホープという高級ホテルのスィートルームに引っ越し、すぐに白いロールスロイスを買った。彼女はスピード狂で交通規則は殆ど無視していたらしい。ニカは毎日夕方に起き52通りのジャズクラブで朝までジャズを聴き、当時新進気鋭のミュージシャン、作家、画家と交流した。しかし、お目当てにセロニアスモンクを探し出せなかった。 モンクは1951年にヘロイン所持で逮捕され、その後7年間キャバレーカード(日本で言う芸人鑑札)を取上げられ、演奏が出来なかったからだ。 ニカは自分の将来を考えるため1954年にイギリスに戻り、正式な離婚手続きを進めた。

ニカが英国に戻った年にモンクがパリに来ると聞き、すぐにパリに向かった。その演奏を聞いた瞬間からニカの人生は変わった。それから28年間、ニカは人生をセロニアス・モンクに捧げた。その後ロンドンに戻り、ロンドンで最高かつ最大のロイヤル・アルバート・ホールの日曜日を6周連続で押さえた。英国の聴衆にモンクを紹介するためである。しかし、モンクのバンドメンバーは公演許可が得られず、彼女は政府や有力な地位にある知人に陳情したが無駄だった。ニカはニューヨークに戻り、その後二度と英国で暮らすことは無かった。

ニカは早速、毛皮を着て白いロールスロイスに乗り、猛スピードでモンクのいるニューヨークサンファル地区という黒人街へ向かった。モンクを迎えるとニカはホテルの部屋にピアノを置き、モンクは殆ど毎日そのピアノを弾いていた。夜はクラブでジャムセッションに参加し、終演後はミュージシャンたちをホテルに招き食事を振舞った。このホテルは人種隔離をしていたので、黒人ミュージシャンは業務用エレベータでニカの部屋に向かった。毎日の食事にも不自由していたミュージシャンにとっては夢のようなご馳走であった。

ビ・バップの創始者、或いは神様と呼ばれたアルトサックス奏者のバードことチャーリー・パーカーは1955年3月12日夜ニカの部屋を訪れた。その時既に、コカインで酷い容態であった。そして部屋のソファで息を引き取った。クリントイーストウッド監督の「バード」では往診に来た医者にも愛想よく相対し、静かに死んでいくが、実際には肝硬変と胃潰瘍の酷い痛みに襲われたいた筈だと著者は推測している。

「ジャズ界の”バップ”の王様、バードことチャーリー・パーカー、53歳、サックス奏者、は土曜日夜大金持ちであるニカの五番街にある高級マンションで死んだ、そしてそれ以降ベルビュー病院の遺体安置室に留め置かれ、月曜日の夜まで公にならなかった。」(以下略)

問題は紙面にもあるように土曜日に死んだことが月曜日に公になった事である。これについては色々な説があるが、現時点でも全てが解明されたとは言い難い。タブロイド紙はスキャンダルとして書き立てた。警察の捜査もあり、ニカはホテルから追い出される羽目となった。これを聞いたジュールは怒り狂い離婚手続きを進め、子供の親権を奪った。この事件以降ニカは孤独になったためか、ますますモンク一途となり、モンクが起こした事件の身代わりになって警察の捜査を受けた事もあった。このようにニカはモンクのみならず多くのジャズメンに献身的に支援した。本書には、その頃の興味深いエピソードが綴られている。

1970年代に入るとモンクの健康はすぐれず、演奏にも支障が出始めた。ニカは何とかモンクを助けようと色々な医師と相談し、入院もさせたが1976年7月4日が最後の演奏となった。その後入退院を繰り返し、1982年2月5日、激しい心臓発作を起こし帰らぬ人となった。モンクを失ったニカは英国に帰る事も出来た筈である。しかし、ニカはその生活を変えなかった。昼過ぎに起きだし、ベッドで新聞、雑誌を読み、音楽を聴き、夜になるジャズクラブへ行く。そんなニカもついに癌と肝炎で1988年11月30日に亡くなった。享年74。

ニカに世話になった多くのジャズメンは彼女への感謝の印として彼女にちなむ曲を作曲している。また、モンクの作曲した Round about midnight, Straight no chaser, Blue Monk, Well you needn’t, Misterioso, Panonica, Ruby my dear, Epsitrophy等は多くのジャズメンにカバーされた人気曲でモンクは作曲家として評価される場合も多い。

ニカはロスチャイルド家の第五世代、著者のハナ(1962年生)は第七世代である。著者がロスチャイルド家の一員なので、ニカの幼少期から米国に渡るまでの生活が細かく描写できている。ニカがニューヨークに渡った1951年は戦争で破壊され、暗く重苦しいヨーロッパに比べ、米国は自由闊達な天国に見えた筈である。ニカは生涯、豪奢な生活を送っていたが、ヨーロッパでは自由だけは得られなかったのだろう。

ニカが初めて聞いて衝撃を受けたセロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」

この命、義に捧ぐ/門田隆将著

一読三嘆、事実は小説より奇なり。
以前仕事の関係で台湾海峡の地図を眺めていた時に、中国福建省厦門(アモイ)の沖2~3㎞の金門島が台湾領である事を知った。恥ずかしながら何故かは分からなかった。しかし、本書には金門島が台湾を守った。そして金門島を旧陸軍根本博中将が守ったという驚愕の事実があった。

根本博は元日本陸軍北志那方面軍司令官であった。8月15日の玉音放送の後、武装解除の命令が出たが拒絶した。上官の命令は絶対であり、従わないのは重大な軍紀違反である。しかし根本中将は内蒙古の在留邦人の命を救うため終戦後もソ連軍と激戦を展開し現地の軍人軍属、その家族約4万人を日本に引揚げさせた。一方、満州の関東軍は武装解除したため日本軍が遺棄した武器をソ連軍が接収し、その武器で多くの日本兵が殺され、シベリア抑留の憂目に逢った。

ソ連軍の侵攻を食止め、邦人救出に尽力する根本を、それまで敵であった国民党の蒋介石総統は黙認し攻撃するどころか援助してくれる場面もあった。また蒋介石は1943年のカイロ会談でルーズベルトが日本敗戦後、天皇を処刑すべしと主張したが、頑として反対した。後年この二つに根本は非常な恩義を感じたと語っている。

戦後、蒋介石が率いる国民党と毛沢東の共産党との国共内戦が勃発し、国民党は敗走を重ねた。当時、日本にも何とか国民党を助け、中国が共産化するのを防ぎたいという人士があり、根本自身もそう思っていた。そこで根本を現地に派遣する事で纏まった。しかし当時の占領下では日本人が外国に行くには密航しかない。よって台湾人や日本人の有志が台湾密航のため、金策に走るが思うように資金が集まらない。しかし時間がないので根本は家族には釣りに行くと言って 釣り竿とほんの少しの身の回りの品を持って鶴川の自宅を出た。

当初博多からの予定であったが、船の調達が上手く行かず、急遽宮崎からの出航になった。船といってもオンボロのポンポン船しか無い。昭和24年6月(1949)、夜陰に乗じて船出したが機関が故障したり、船底に浸水したりで、 まさしく命がけの台湾行であったが14日後無事、基隆に到着した。しかし怪しげな密入国者一団と見做され投獄される。二週間後根本の素性が知れ、四年ぶりに後蒋介石と会見出来た。

蒋介石は根本を信頼し、国共内戦の作戦参謀顧問を依頼する。その時点で国民党は上海、重慶も放棄し敗走を続け、最後の拠点は厦門のみとなった。根本は早速現地に赴き、調査を開始する。しかし当時の戦力では勝てる見込みがなく、食糧の自給も無理と判断した根本は厦門を捨て、沖合の金門島で敵を迎え撃つ事にした。厦門での抵抗で時間を稼ぎ、その間、塹壕を掘り補給路を整備し、地元住民に塁が及ばないよう細心の注意を払った。

10月24日ついに数百隻のジャンクに分乗した約3万の共産党軍が侵攻してきた。しかし共産党軍は連戦の勝利で油断があったためか根本の作戦通り、すり鉢型の海岸に誘い込まれ、周囲から攻撃により多くの戦力を失った。また敗走できないよう塹壕に隠れていた兵隊が敵の船を焼き払った。 その後金門島は地下要塞化を完成し朝鮮戦争で米軍が台湾海峡を封鎖したため、共産党軍の海上侵攻は不可能となった。暫く放火が飛び交ったが金門島と台湾は守られた。

根本が台湾に渡った事はGHQの知る事となり当時の国会でも取り上げられた。また戦後、軍人への反感が強まっていた新聞、雑誌がかなりのバッシングを行った。世間の厳しい目に晒された留守家族には、このためか何の保証も、援助もされなかった。

三年後根本は帰国した。羽田空港で航空機から降り立った時の写真が残っているが、右手にはしっかり釣竿が握られていた。羽田での記者会見で「終戦時百万の将兵を無事帰国させて下さった蒋介石総統に日本人の一人として万分の一の恩返しをした。」と語った。また現地では助言はしたが「前線に出て部隊の指揮をとったりしたことはない。」とはぐらかし金門島戦には一切ふれていない。確かに根本は作戦を立案したが部隊を指揮したのは国民党軍の将校であった。

平成21年(2009)この地で戦役60周年記念式典が開催されたが当時の馬英九総統は根本の貢献に言及しなかった。かつての敵国である日本人の手助けを得て国民党軍が勝利したとは言えない面子があったからだと思われる。 このように殆ど抹殺されかけていた根本の事績を大変な調査、取材活動を重ね、記録に留めてくれた著者には頭が下がる思いがする。是非本書の一読をお勧めする。(第19回山本七平賞受賞)

正しいFUCKの使い方/MADSAKI監修

最近のアメリカ映画を見ていると、セリフの中にしょっちゅう”fuck”が出てきます。戦争映画だとセリフはそればっかりという感じです。少なくともかつてのオードリー・ヘップバーンの映画には出てきませんでした。”fuck”は新しい言葉のような気がしてましたが、20世紀の始めから使われていたようです。語源を調べてみましたが諸説あり、どれも無理やりのこじつけという感じで、はっきりしません。まあ、俗語ですからやむえないところです。

“fuck”のような言葉は学校では習いませんし、英検やTOEICにも出てきません。しかし本書により”fuck”のみならず”shit”, “damn”, “hell”の正しい用法も学べます。これらはどれもイケナイ言葉ですが、その程度がかなり違うようです。本書では危険度を以下のように分類しています。しかし、昔イケナイ言葉だと習った”hell”がこの表では「一般的かも」と評価されています。時代の流れでしょうか?

“fuck”は本来の性交という意味以外に様々な用法があります。
⦿ 動詞として;
Are you fucking with me?/あんた、私のことバカにしてんの?
Don’t fuck it over./しくじるなよ
Don’t fuck me over./なめんなよ
Do me a favor and just shut the fuck up for the fuck’s sake./お願いだから黙っといてくれ
⦿ 形容詞の強調として;
This pizza is fucking delicious./このピザは超おいしい
This place looks so fucking familiar./この場所はとても良く知っている
⦿ 形容詞自体に入れて;
delicious –> deli-fucking-licious/超おいしい
fantastic –> fan-fucking-tastic/超すてき
incredible –> in-fucking-credible/信じらんなーい
⦿ 疑問文に入れて;
What the fuck are you doing here?/いったい、お前はここで何をやっているんだ
Where the fuck are you going?/いったい、お前はどこにいくんだ?
Who the fuck are you?/いったい、お前は誰なんだ

“fuck”が世界中で広く使われるようになった一つの要因は映画”Woodstock”の影響があると思います。Country Joe & the FISHのリーダーであるCountry Joe McDonaldが歌い始める前に観客に叫ぶと会場全体が反応しました。
Give me an “F”・・・・・・ “F”!!
Give me a ”U”・・・・・・・”U”!!
Give me a “C”・・・・・・・ “C”!!
Give me a ”K”・・・・・・・”K”!!
What’s that spell?・・・・・FUCK!!
What’s that spell?・・・・・FUCK!!
・・・・・・・・・

映像でご確認ください、30万人の観客が一斉にです。かなりの迫力です。
これ、英語だからボヤっと聞いてられますが、日本語の四文字言葉でやったらどうでしょう?
余談ですが、今年はウッドストック50周年です。40周年の時は結構盛り上がったんですが、今年は何の動きもありません。もうみんな忘れたという事でしょうか。

I-feel-like-I’m-fixin’-to-die rag / Country Joe McDonald

画面にカラオケのように歌詞が出てきますので、その部分だけ訳してみました。

And it’s one, two, three/それで、1,2,3
What are we fighting for?/僕らは何のために戦っているのか?
Don’t ask me, (I) don’t give a damn/僕に聞かないでくれ、僕は罵りはしない
Next stop is Vietnam;/次はベトナムだ
And it’s five, six, seven/それで、5,6,7
Open up the pearly gates/天国の門を開けろ
Well there ain’t no time to wonder why/そう、なんでだろうなんて考えている暇はない
Whoopee! we’re all gonna die/イェイ!僕らはみんな死ぬんだ

【narration】
Listen people I don’t know how you expect to ever stop the war/みんな聞いてくれ 僕は君たちがどのように、なんとかして戦争を止める事を期待しているかは分からない
If you can’t sing any better than that/もし、君達がそれ以上上手く歌えないなら
There’s about 300,000 of you fucker out there/此処には約30万人の君たち阿保がいる
I want you to start singin’/僕は君たちに歌い始めて欲しい
Come on/さあ

Now come on mothers throughout the land/さて、国中のお母さんたち
Pack your boys off to Viet Nam/急いで君の息子達をべトナムへ送り出してくれ
C’mon fathers don’t hesitate/さあ、お父さんたち躊躇しないで
Send your sons off before it’s too late/あなたの息子を手遅れになる前に送り出してくれ
Be the first one on your block/あなたの地区の一番で
To have your boy come home in a box/あなたの息子が箱に入って帰って来られるように
Alright/オーライ

この歌についてCountry Joe McDonaldのインタビューが残っています。これによると舞台に上がって二曲歌ったが、聴衆が聞いてくれず全然ウケない。そこで一旦舞台から降りてマネジャーに FISH Cheerをやって良いかと聞いた。彼は普段から舞台に上がって歌う前に Give me an F, Give me an I, S, H, What’s that spell FISH!とやって盛り上げていたようで、これをFISH Cheerと呼んでいた。やって良いかと聞かれたマネジャーは当然FISHだと思ってOKしたら実はFUCKだった。これが30万人の大合唱となりました。

ベトナム戦争の頃の米国は徴兵制でした。当時の若者たちはひょっとしたら自分もベトナムに連れて行かれて死んでしまうんぢゃないか、というウッスラとした恐怖感と不安が蔓延しており、40万人(主催者発表)の若者たちがウッドストックにそのはけ口を求めて集まって来たんだと思います。未だに語り継がれるここでのジミ・ヘンドリックスのギターによる歪んだ米国国歌の演奏がその頃の彼らの心情を如実に表していたように思います。
尚、本書にはご丁寧にもCDがついています。これを聞いてFUCKの正しい使い方を身に付けてください。

楽園のカンヴァス/原田マハ著

この小説は前から気になっていたが、やっと新潮文庫で読むことができた。著者は岡山生まれで子供のころは大原美術館が遊び場だったようだ。早大二文美術史科卒業後、森ビル美術館設立に関わり、この間MoMA(ニューヨーク近代美術館)で半年研修を受けた経験がある。小説の舞台は大原美術館、 MoMA、スイスのバーゼルと国際的に展開する。

早川織絵は米国で生まれ、パリで美術史を研究し博士号を取得。当時若きルソー研究家として学会で注目されていた。仏人と結婚し一児を設けたが、離婚し倉敷の実家に戻って大原美術館の監視員を勤めている。 1983年 、MoMAのアシスタント・キュレータのティム・ブラウンはアンリ・ルソー展の企画助手をしていた。二人はバーゼル在住の謎の大コレクター、バイラーが所蔵するルソー作「夢をみた」の真贋鑑定を依頼される。「夢をみた」はルソーの代表作である「夢」(表紙絵)に酷似している大作であるが、文献には現れていない。バイラーはこの二人をバーゼルの屋敷に招き、一週間滞在させる。初日に「夢をみた」を見るがそれ以降は一週間かけて、ある小説を読み、その内容から七日目に講評を行う。バイラーが満足する講評を行った方に、その絵のハンドリング・ライトを委ねる。もし、そうなれば莫大な利益を得る可能性もある。

小説の中で小説を読むという仕掛けが面白い。その小説にはルソーとピカソの交友と絵の謎に関するヒントが描かれており、この小説の中の謎と現実の謎が交錯する。また、インターポールやバイラー自身の謎もあり、日本人が書いたミステリーとは思えない面白さがある。そして、最後は意外にもハッピー・エンド。

絵画は音楽や文学と違って100億円を超える値が付くものもあり、昔から盗難や贋作事件が多い。そんな事件を扱った美術ミステリーは世界中で小説や映画になっているが、解説の高階秀爾(大原美術館長)は「これまでに書かれたどんな美術ミステリーとも違う」と述べている。 殺人事件が起こるわけでは無し、派手な秘宝争奪戦が演じられるのでもないが、その謎の解明を核として豊かな物語を紡ぎだす筆力に唸らされた、と激賞している。