入江にて/郷ひろみ

郷ひろみを初めてTVで見た時は「何なのこれ、阿保みたい」と思った事を覚えている。当時は歌番組が多かったので時々彼を見ていたが、特にどうとも思わなかった。

大学生の時、先輩が当時調布駅前にあったキャバレー・チェーンのハワイに連れて行ってくれた。6時迄に入るとサントリー・オールド飲み放題という、今風に言えばハッピー・アワーを狙って入店。当時の貧乏学生にとってはオールドは高級品。店のオネ―さんには目もくれず、柿ピーを齧りながら水割りをガブガブ飲み続けていた。暫くすると店内が少し暗くなり、ミラー・ボールがチカチカし始めた。と同時に郷ひろみの歌(曲名忘れた)が大音量で流れ、それに合わせて店のオネ―さんがみんなヒェーとかフゥーとか言って立上り、クネクネと踊り始めたのであった。

ス、スゴイ!これがその時の感想である。郷ひろみは一遍にこれだけのオネ―さんを躍らせる力があるのだ!と思った。勿論お店のマニュアル通りのルーティーンであろうが、なんか感動したのを覚えている。その翌日か翌々日、新星堂に行って「郷ひろみ全曲集」というカセットを買い、郷ひろみの歌を覚えた。聞いてみると中々面白い。それ以来、郷ひろみの新曲が出るとつい気になって聴いていた。

郷ひろみには良い曲がたくさんあるが「入江にて」はベスト10に入ると思う。タイトルが地味でシングル・カットされていないので、余り有名ではないが、今聞いても古くない。このLPはニューヨークのスタジオ・ミュージシャンが結成した24丁目バンドがバックを努めており、ジャケットは横尾忠則、プロデューサーは酒井政利という豪華メンバー。しかしこのLPは素晴らしい出来にも係わらずCD化されないのは、権利の問題でもあるんでしょうか?

<2018.02.20 追記>
1月28日放送の「クリス松村のいい音楽あります」で「スーパードライブ」が紙ジャケット仕様でCD復刻発売された、とクリス松本が感激しながら語ってました。但し、放送では入り江にてはかかりませんでしたが、、

ブンガチャ節/北島三郎

北島三郎は紅白から引退し、愛馬のキタサンブラックは最後の有馬記念で有終の美を飾り、昨年は北島三郎にとってはかなり良い年だったのではないでしょうか?この歌を今聞くと昭和の匂いというより、何となく戦前又は大正の香りという雰囲気が感じられます。

….<2011.10.10>……復刻再掲

北島三郎のデビュー曲で、元歌は民謡ではないでしょうか。以前、京都のお座敷に遊びに行ったとき、三味線のお姉さんが場つなぎに、これを弾いていたのを思い出します。この曲は発売後すぐに放送禁止となりました。歌詞の中の”キュッ キュ キュ キュッ キュ キュ”の部分が猥褻だそうで、詳細は不明ですが、ベッドの軋む音に聞こるという理由だそうです。しかし、この”キュッ キュ キュ キュッ キュ キュ”がこの歌の肝でこれに文句を付けられてはこの歌の存在価値が無くなってしまいます。では、皆さんご一緒に”キュッ キュ キュ キュッ キュ キュ”

トホホ度 ★★★☆
お笑い度 ★★★☆
意味不明度 ★★★

くれないホテル/西田佐知子

かなり前になるが、歌舞伎町に「えば」というスナックがあった。今はもう無いが、そのスナックのママが同郷という事で時々顔を出していた。そこに高校の先輩・後輩が寄り集まって宴会をやったり、出張で上京していた市長と一緒に飲んだり歌ったりしたこともある。

当時はカラオケボックスよりスナックで歌う事が多く、ママは西田佐知子が好きだというので「くれないホテル」を店のカラオケで何度か歌った覚えがある。

この歌は橋本淳作詞、筒美京平作曲で筒美京平はご承知の通り、数多くのヒットソングを作曲している。彼について色々な論評があるが、最近入手した筒美京平に関するインタビュー集では細野晴臣、大滝詠一、山下達郎がそれぞれの筒美京平に対する想いを述べている。

当時細野晴臣は洋楽、特にサイケデリックな音楽にどっぷり浸かっており「とにかくアメリカ、イギリスの辺りの音楽の全盛期で、日本の音楽は今聞いていいと思うようなものでも、当時は全然耳に入ってこなかったんです。その中で一曲だけ入ってきたのが筒美さんの『くれないホテル』だったんです。」と述べている。

細野晴臣が「くれないホテル」を高く評価しているという事を大滝詠一は知っていたようで「まず、筒美作品で一番好きな曲を挙げろと言われれば弘田美枝子さんの『渚のうわさ』なんですよ。細野(晴臣)さんだと『くれないホテル』(西田佐知子)と来ると思うけど(笑)」

山下達郎は「くれないホテル」について「弦が印象的な曲とかそういうのはいくらでもあげられるけど『17才』とかね。ブラスはなんていったって『また逢う日まで』ですよ。あのイントロのスケールってすごいもの。あとは『くれないホテル』の『ホ・テ・ル』のあのメジャー7thの感じとかね。」

私もこの歌は他の演歌と違う落ち着いた感じが心地良く感じました。特に山下達郎言う処の「ホ・テ・ル」が堪らないですね。下敷きはエンゲルフンパーディンクの「ラストワルツ」だとかバートバカラックの影響とか言われますが、まあ、そういうのはどうでも良いと言い切ってしまいましょう。

西田佐知子の唱法はヴィブラートが少なく、都はるみがHOTとすれば西田佐知子はCOOL。水前寺清子が陽とすれば西田佐知子は陰。ジャズで言えばNYを中心としたEAST COAST JAZZというより米国加州で盛んだったWEST COAST JAZZという感じでしょうか?

では、「ホ・テ・ル」とそれに続く余韻をお楽しみください。

最強の女/鹿島茂著

最強の女とはだれか?それは吉田沙保里!というのは冗談ですが、鹿島茂の選んだ五人の最強の女とは?カバー裏の説明によれば「恋人、愛人、夫の名前を並べるとその時代の有名人の名鑑が出来上がる。」

舞台は19世紀末から20世紀初頭のパリ。その五人は
(1)ルイーズ・ド・ヴィルモラン
(2)リー・ミラー
(3)ルー・ザロメ
(4)マリ・ド・エレディア
(5)ガラ

この中で最も有名なのはルー・ザロメでしょう。1861年2月12日、ロシアの首都サンクトペテルブルクで六人兄弟姉妹の長女として生まれた。彼女については自伝、評伝もあり「ルー・サロメ -善悪の彼岸 」という映画にもなっている。監督は『愛の嵐』のリリアーナ・カヴァー二監督。ルー・サロメ役のドミニク・サンダが怪しい雰囲気を醸し出している。

ルー・ザロメには「三位一体」という妙な計画があった。「要するにルー・ザロメが夢見たのは、女一人と男二人がセックス無しで共に勉学に励むという三位一体(トリニテ)の計画である。(後略)」。その一人が当時32歳、気鋭の哲学者でルー・ザロメに一目ぼれしたパウル・レーであった。しかし、彼女は求婚をつれなく拒絶する。パウルは彼女の三位一体計画を知り悩んだあげく師と仰ぐニーチェに手紙を書いた。ニーチェは彼女に会った途端に恋に落ちた。ニーチェも彼女に結婚を迫ったが、拒否され仕方なく彼らは三位一体の生活を始める。

彼らはニーチェの発案で三位一体完成記念写真を撮影した。右端がニーチェ。彼女は鞭を持っているが、二人の男が指揮されているという意味であろうか。映画にもこの写真を撮る場面が出てくる。

三人のヌード。この写真のオリジナルには全身が写っている。三人の共同生活はニーチェが強い結婚願望を抱いたのを彼女が嫌悪し1ヶ月で終焉した。彼女はニーチェと別れ、パウロ・ルーとベルリンで5年に及ぶ共同生活を始めた。パウロ・ルーは彼女との結婚を諦めてはいなかったが、やはり拒絶された。彼女は同棲しているにも関わらずベルリン社交界の花となり、名士の多くが彼女に求婚した。数々の求婚を断ってきたが、1887年突如としてフリードリヒ・カール・アンドレスというベルリン東洋語学研究所のトルコ語教授と結婚した。アンドレスは彼女に一目惚れし、ナイフを持って彼女の家に押しかけテーブルの上にそのナイフを置き、そのナイフで自分の胸を刺した。アンドレスは一命を取り留めたが、自分が犯人だと疑われるのを恐れ彼女は結婚を承諾した。

アンドレスとの結婚生活はアンドレスが84歳で没するまで43年間続いたが「それは、結局のところ、フランス語で言うところの『白い結婚(マリアージュ・ブラン)』つまり肉体関係の伴わない結婚に終わったのである。」この揉め事を避けるため彼女はアンドレアスに代理妻を用意した。

しかし、1897年ミュンヘンで詩人のリルケと知り合った時は「二人は肉体的にも『完全合体』を遂げ、高度な次元へ到達したと感じたのである。」中略「リルケは純粋な詩人であると同時にジゴロのような性的テクニシャンであって、おそらく、ルーを初めて性的なオルガスムスへと導き、恍惚感を与えたということになる。」

1899年4月彼女はリルケにアンドレアスと三人でのロシア行を提案した。彼女はロシア語が母語であり、リルケにロシア文学を学ばせるという名目でロシア語教師となっていた。リルケはこの提案にのり、彼女とアンドレアス、リルケの三位一体のロシア旅行に出発した。帰国後彼女はリルケと別れるため二人だけで二度目のロシア旅行へ出かける。

パウル・レーは1901年10月イン川で溺死した。自殺とみられている。これを聞いたルー・ザロメは彼とは別れて14年になるが、原因は自分にあると考えた。精神的に衰弱した彼女は主治医のフリードリッヒ・ピネーレス博士の勧めにより転地療法としてチロルへ移住した。ピネーレスは同行し、彼女は41歳にして初めて妊娠した。ピネーレスは驚いて夫のアンドレアスのもとに赴いて離婚を懇願しようとしたが、夫の性格を知りぬいている彼女は強く反対し、結局堕胎した。その後1902年にピネーレスと別れアンドレアスの元に戻った。

1911年ワイマールで彼女の愛人の紹介でフロイトに出会う。この時点でルー・ザロメは既に女流作家として名前が通っており「エロティーク」という著作を著した時からフロイトに興味を持っていたようである。このため1912年からフロイトのいるウィーンに滞在し「集中学習」を開始した。しかし、この二人の間には肉体関係はあり得なかった。「なぜなら、『失われた父』を求め続けたルーにとってフロイトはまさに『見出された父』あり、その『父』と関係を持つことは忌まわしい近親相姦となったからである。」

最後に紹介されているガラは1894年帝政ロシアのカザンで生まれた。彼女はポール・エリュアール、マックス・エルンスト、サルバドール・ダリのシュールレアリスムの三巨頭を手に入れたと言って良い。ポール・エリュアールとマックス・エルンストとは三角関係が長く続いた。その後ダリとは正式に結婚している。これまで紹介された4人は自身で詩や小説或いは写真等による表現者でもあった。しかし、ガラは自身で創作する事はせず、金の為にダリに絵を描かせた。

彼女がスペインでダリに初めて会ったのは1930年。25歳で童貞であったダリが一目惚れ。同行したエリュアールがダリの背中を押し、ガラは「いやいやながら」ではあったが、海辺を何度か散歩していると遂には「ねぇ坊や、わたしたちもう離れられないんじゃない?」と呟くに至った。エリュアールは当時ガラと結婚しており、ダリを3Pの代打位にしか思っていなかった。エリュアールはガラとダリの仲に気付かず、彼女を置いてフランスに帰った。

その後二人はマルセイユのアパートに移り、ダリを画作に没頭させた。ガラはなんとかダリの絵を売ろうとするが、中々商売にならず、暫くの間極貧性格を余儀なくされる。その後ガラのマネージメントの手腕が発揮され徐々に絵が売れるようになるが、スペイン内乱、第二次世界大戦勃発の混乱を避け、二人はアメリカに亡命した。

ガラは金の為にダリの尻を叩いて絵を描かせた。Mであったダリは絵を描けと責められる事に快感を感じていたが肉体的接触は極端に嫌った。鹿島茂はダリは裸体のガラを視るだけで満足する「搾視症のオナニスト」と断じている。次第にシュールレアリスムがブームとなってダリの絵が巨額で取引されるようになり、生活は潤ったがガラはダリに対するSだけでは満足できなかった。ガラがニューヨークで若い男に声を掛けている姿が何度か目撃されているそうだ。

ダリとガラ(ガラが特に美人とは思えない)

ルー・ザロメ、ガラ以外の三人も波乱万丈の生涯を送っている。5人に共通するのは一人の男では満足できない、しかしセックスだけでは無い、という処でしょうか。本書は数々の自伝、評伝、資料を纏め5人のファムファタール(運命の女)の生涯が簡潔に紹介されており、類書の無い、面白い読み物になっている。

蛇足ですが、著者は本書の装丁に満足されているんでしょうか?

染之助・染太郎のおめでとうございます/海老一染之助・染太郎

謹賀新年

あけましておめでとうございます

お正月にはどこの番組を見ても「おめでとう、ございま~す。いつもより余計に回しておりますぅ」と元気よく傘を回していた海老一染之助さんが昨年12月にお亡くなりになりました。もう、あのお目出たい芸が見られなくなってしまい、残念です

……………<復刻・再掲 2004.12.25>………..

お正月と言えばやはり、おめでとうございま?すでお馴染みの海老一染之助・染太郎さんが欠かせません。「いつもより余計に回しております」や「これでギャラおんなじ」というギャグは最早知らない人はいないでしょう。芸歴の長いお二人ですが、レコードは高田文夫プロデュースのこの1枚だけ。残念ながら染太郎さんはお亡くなりになりましたが、染之助さんの曲芸は健在です。
……………….

トホホ度 ★★☆
お笑い度 ★★★☆
意味不明度 ★★