そんな事より気になるの/タブレット純

タブレット純は元マヒナスターズのメンバーだった事もあり、何枚かムード歌謡的な歌を出していますが殆ど売れていません。今年は新曲「夜のペルシャ猫」を出しましたが、これも売れていないので自分のラジオ番組で何度も掛けています。しかし残念ながらこれと言った効果は表れていないようです。

この歌はまともなムード歌謡なんですが、寄席やライブでは小学生の時の算数の文章題をネタにして替歌のよう歌って笑いを取っています(ネタバージョン)。自分の持ち歌をお笑いのネタにしてしまうのは珍しいパターンです。

そんな事より気になるの/タブレット純
トホホ度 ★★★☆
お笑い度 ★★★
意味不明度 ★★★
そんな事より気になるの(ネタバージョン)/タブレット純

ことわざアップデートBOOK/TOKYO MX「5時に夢中!」編

東京MXTV(9ch.)で月曜から金曜、午後5時から「5時に夢中」という番組がある。司会は月~木がふかわりょう、金曜日が原田龍二。日替わりのレギュラーコメンテーターと日替わりゲストが登場する。この番組は2005年に始まり、マツコ・デラックスやミッツ・マングローブを世に出している。超売れっ子になったマツコもこの番組に恩義を感じているのか、安いギャラにも関わらず、毎週月曜日に出演している。

「ことわざアップデート」は人口に膾炙することわざを、今風にアップデートするという興味深い試みである。既に始まって5年を経過し、この間の作品を纏めたのが本書である。現在は毎週木曜日に「名人」岩井志麻子(作家)、「師範代」中瀬ゆかり(新潮社出版部長)、「見習い」ジョナサン(芸人)と視聴者の案を紹介し、その回のベストをふかわが選出する。最近の作品は下ネタが多く、TVではケラケラ笑いながら見ているが、それを文字として読むと結構エグイ。きついのは避けて作品のいくつかを引用する。

<2015>
● 溺れる者はワラをも掴む → 欲求不満な者は蒟蒻をも掴む
● 石橋を叩いて渡る → 警察にセコムする
● 泣きっ面のハチ → 金欠病に住民税
● 玉にキズ → フェラーリに5時夢ステッカー
● 花より団子 → ブラピよりカルビ
● 寝耳に水 → 窓の外にお兄さん
● 猫に小判 → ハゲにリンス

<2016>
● 水と油 → 港区と足立区
● 糠に釘 → ハゲにクシ
● 武士は食わねど高楊枝 → ブスはナンパされねどピンヒール
● 匙を投げる → 体重計を捨てる
● 触らぬ神に祟りなし → 発言しなけりゃスベリなし
● 風前の灯火 → 台風の前のビニ傘
● 軒を貸して母屋を取られる → 一口頂戴で皿ごといかれる

<2017>
● 井の中の蛙大海を知らず → 胃の中のカルビ体形を知らず
● 犬が西むきゃ尾は東 → 全裸で町出りゃ手は後ろ
● 虎の威を借る狐 → Lの衣(装)借りるとキツめ
● 賽は投げられた → パイは舐められた
● 藪をつついて蛇を出す → エゴサーチして涙出す
● 捨てる神あれば拾う神あり → 捨てるキー局あれば拾うMXあり
● 毒を喰らわば皿まで → 娘を喰らわば母まで

<2018>
● 雨降って地固まる → デキちゃって籍固まる
● 金持ち喧嘩せず → Gカップ胸寄せず
● 泥棒を見て縄をなう → ラブホに入って腹筋なう
● 破れ鍋に綴じ蓋 → 草食男子に肉食女子
● 一寸の虫にも五分の魂 → 無職にも曜日感覚
● 帯に短し襷に長し → セフレには重たし彼女には違うし
● 貰うものは夏も小袖 → 貰うものはハゲもカチューシャ

毎回結構な下ネタを出す回答者又は放送作家の才能には脱帽である。しかし、よくまあこんな本を出すなあと思う反面、予約して買う馬鹿もいるので、まあ、よしとしょう。

全くの余談であるが、例の原田龍二の黒のランクル事件が文春に出たのが5月30日(木)。翌31日(金)の5時に夢中は彼が司会。アシスタントはミッツ・マングローブ、レギュラーコメンテーターが中尾ミエ、ゲストがホリエモン。この3人で原田龍二に言訳をする暇も与えずイジリまわし、大笑い。翌週の6月5日(水)13時からのデイズ(ニッポン放送)は原田龍二担当でアシスタントはニッポン放送アナウンサーの東島衣里。東島は冒頭から、今回の件についてキチンとリスナーに説明して頂きます、とか、奥様にはどう報告されたんですか?等と詰問調で迫り、ついに原田龍二は泣いてしまう。東島アナは真面目で良いんだけれど原田を攻めているのを聞いても面白くもなんともない。これまで出てなかった話を引き出し、5時に夢中の様に笑いに変えてしまう度量が欲しかった。

絵を見る技術/秋田麻早子著

映画を見たり、小説を読んだりするのと違って絵は2秒あれば見られる、或いは見たことになる。逆に一枚の絵を何時間も見ている人もあれば、何日も絵の前に陣取って模写している人もいる。絵の見方は色々あると思うが、本書はその基本を分かりやすく説明している。腰巻にもあるように「名画の構造を読み解く」事が目的である。

少し長いが、序章の一部を引用します。「(前略)理由はなんであれ、歴史的名画をちゃんと見られるようになりたい、と思う人が増えているのは確かでしょう。しかしながら絵を好きなように見てもいいんですよと言われても、どこから手をつけていいのか分からないものです。これで合っているのだろうか、と不安な気持ちにもなるでしょう。反対に、絵の背景知識を深めないと絵はよく分からない、と言われると、今度はたくさん勉強しなくてはと思ってしまいます。一方は感覚に頼る方法で、もう一方は知識に頼る方法。もちろん、どちらも必要なことは確かですが、センスに自信が無く、知識が僅かしかなくても、絵をちゃんと見る方法はないものでしょうか。」

この文は正しく我々素人の絵に対する思いを代弁しています。この問いに対する著者の回答は「『好きなように見る』と『知識を持って見る』の間にあるものはなんでしょう。それは『観察』です」。要するに漫然と「見る」のではなく「観察」せよと。「観察」とは目的を持って「見る」事であり、「観察」するためには「スキーム(見るための枠組み)」が必要である。本書はこのスキームを多くの名画のカラー図版を使って分かりやすく説明してくれます。

第1章 「この絵の主役はどこ?」-フォーカルポイント
    まず絵の主役をさがす。
第2章 「名画が人の目をとらえて放さないのはなぜか?」-経路の探し方
    画面の中の視線誘導。
第3章 「『この絵はバランスがいい』ってどういうこと?」-バランスの見方
    構造線を見つける。
第4章 「なぜその色なのか?」-絵具と色の秘密
    色の見方
第5章 「名画の裏に構造あり」-構図と比例
    構図の定石を知る。
第6章 「だから名画は名画なんです」-統一感
    絵の表面的な特徴

私には「視線誘導」、「構造線」、「構図」の章を興味深く感じた。絵を見ると色味やタッチに目を奪われがちで、構造線と構図による視線誘導には殆ど意識がなかった。 構造線は絵のバランスを決める骨組みのようなものでボッティチェリからモンドリアンまで、これで説明されているのには少々驚いた。 構図は言うまでもなくルネサンス以前から多くの研究があり、それに加えて黄金比に代表される矩形の比例、比率の研究が相まって近代絵画にその成果が上手く取り入れられている事が分かる。

我々が絵を見る際に何をどう見れば良いか、という指針が非常に分かりやすく説明されており、入門書としては最適だと思われる。これまでこういう本が無かったためか良く売れているそうです。

POPS PUNCH/平凡パンチ800号記念レコード

珍しいレコードを見つけました。平凡パンチ創刊800号を記念して発売された二枚組のLPで定価3,000円。平凡パンチは昭和39年(1964)に定価50円で創刊されたので800号発売は昭和54年(1979)になる。平凡パンチは週刊プレイボーイとライバル同士であったが、パンチは昭和63年(1988)に休刊となった。当時はキヨスク(その頃は鉄道弘済会と呼ばれていた。)でドキドキしながら買った覚えがある。

レコードの内容は60、70年代のヒットポップスが26曲入ったオムニバス盤。曲のつなぎに小林克也とシリア・ポールの曲にちなんだ喋りが入っている。最近はこういう遊びをやる人が無くなった。こんな遊びが出来る曲が無いという事でしょうか。

以下にレコード各面をアップロードしてみましたが、何しろ、古いレコードなので、音質は今市です。

レコード1-A面

曲目リスト

レコード1-B面

レコード2-A面

レコード2-B面

美しき愚かものたちのタブロー/原田マハ著

これが出た時は余り関心がなかった。しかし直木賞候補になったと聞いて急に興味が湧いた。全く権威に弱い小市民である。腰巻に書いてある通り、松方コレクションの成立事情を追った事実に基づく小説である。

川崎造船所の社長である松方幸次郎は第一次大戦で船が不足することを見越し、船主からの発注前に予め船を作って在庫とする(ストックボート)ビジネスを発案した。通常船舶の建造には1~2年程度かかるが、在庫があれば急の需要に応えられる。しかし、必ず売れる確証は無くリスクは大きい。役員会が反対したのも当然である。しかし、これが大当たりした。船が不足し、市場の値が吊り上がる。元値の6~10倍で売れた。この儲けを美術品購入に充てたのが、松方コレクションの原型となった。

松方は美術に関する造詣は無い。しかし西洋美術館を建てたい、若い人に本物の西洋美術を見せてやりたい、との一念からロンドン、パリで西洋美術品と海外に流失した浮世絵を買い漁った。西洋絵画だけでも3,000点以上と言われる。 しかし、第二次世界大戦のドサクサで全てを日本に送ることが出来ず、フランスの田舎に疎開させたが、敗戦後その大部分が仏政府に接収された。

1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は独立を回復した。その翌年、仏政府と松方コレクションの返還交渉を行うため美術史家の田代と文部省の役人である雨宮の二人がフランスに乗込むところから物語は始まる。仏政府は大部分の返還には応じたが、コレクションの核となる20点については拒否した。全20点の返還は無理と考えた田代は次の3点の返還を強く主張した。ゴッホの「アルルの寝室」、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」、モネの「睡蓮、柳の反映」。交渉の結果ゴッホ以外は返還された。しかし、モネはその後行方不明となる。

アルルの寝室/ゴッホ

2016年9月、フランスの美術館関係者がルーヴル美術館内でこれを発見した。上半部が大幅に棄損していたが約1年間掛けて日本で修復した。これらを、松方コレクションを展示するために 昭和34年(1959)に建設された国立西洋美術館にて開催された「松方コレクション展」でこの3作が同時に展示された。( 「アルルの寝室」はオルセー美術館蔵)。 モネの「睡蓮、柳の反映」 は約1年間かけた修復に大変なご苦労があったと思われるが、欠損部分が大きく、残念ながらモネの傑作を見ているという感慨は無かった。

松方の美術品購入は1921年から始まる。若き日の田代がアドバイザーとなって、ロンドン、パリの画商で次々に買い漁る。勿論画商の間で評判となり、次々に素晴らしい作品が提示される。松方は田代のアドバイスによって、見ずに買った絵もかなりあるようだ。また、現地大使館員の紹介でモネの自宅に2回赴き、本人から 「睡蓮、柳の反映」 を含め数点を直接買っている。絵を買い漁る派手な場面や松方の部下で元飛行機設計技師であった日置がフランスに侵攻したドイツからコレクションを守ろうと人生を掛けて奮闘した感動的場面もあり、面白い読み物であった。尚、松方がヨーロッパで美術品を買い漁る際、当時のドイツの潜水艦の設計図を入手するというミッションがあった、と言われているが、確かなことは不明である。

余談ではあるが、最近の研究でゴッホの 「アルルの寝室」 は製作した時と現在では色が違うという事が判明した。もう少し、調べてみたい。

全裸監督(NETFLIX)

近頃、巷では「全裸監督」の評判がすこぶる良い。見た人の多く(芸能界人)は異口同音に「金がかかってる」と言う。製作はNETFLIXでこの会社の今年のオリジナルコンテンツの総製作費は1兆円を超えているそうだ。ハリウッドにも勝る金の掛け方である。また、昨日の日経には米国内でのIT技術者不足の話題があったがNETFLIXがアップルやグーグルの2倍以上の給与で人を集める事がその要因の一つらしい。本作は村西とおる監督の自伝的小説「全裸監督」(本橋信弘著)をネットフリックスがドラマ化した。(シーズン1、全8話)。村西とおるは1980年代のAV界をリードした監督で、黒木香が主演した「SMぽいの好き」が大ヒットしている。

村西とおる(山田孝之)は札幌で英語教材のセールスマンであったが、営業成績が伸びずパワハラを受けていた。ある日、顧客(やくざ)からの助言でセールストークに目覚め、成績を急伸させた。その後、チンピラのトシ(松島真之介)からアダルトの世界に誘われ当時流行していたビニ本の製作・販売を始める。大手業者やヤクザからの嫌がらせ、営業妨害を受けるも挫けず、業務を拡大していく。ついに新宿歌舞伎町に進出し、AVビデオの製作・販売を始めたが、ここでも同業者のヤクザやヤクザと裏で通じている刑事(リリーフランキー)らに営業妨害を受ける。

起死回生を期してハワイでペントハウスの元AV女優のビデオを撮影するが、公序良俗に反する咎で逮捕される。日本に帰ってきたスタッフの涙ぐましい努力で保釈金を用意し、村西を帰国させた。そのころ、横浜国大生だった黒木香(佐原恵美)はイタリアの美術学校への留学資金のため、村西の会社に飛込む。デビュー作の「SMぽいの好き」が大ヒットし、多数の雑誌やTVに出演する時の人となる。

1980年代の歌舞伎町を再現したセットには自分が覚えてる店の看板などがあり、当時を忠実に再現している。また、その街中を自転車で朝日新聞を配るタイガーマスクの雄姿があり、なんかうれしかった。ブラピとデカプリオが共演した「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」では1969年のハリウッドの街並みが再現され、タランティーノ監督が楽しんでる雰囲気が感じられたが、こちらは自分が見た風景なので、なんとも言えない懐かしさがある。小道具にもこだわりがあり、作中のビニ本やAVビデオは新たに製作した。総監督の武正晴は明大卒で学生時代は明大前の貸ビデオ屋でバイトをしており、当時の主要な女優は覚えている。彼によれば最近のAV女優はかわゆい子ばかりであるが、当時は今ほどではなかったので、ビニ本を作る際オーディションでなんか今一つ残念な子ばかりを集めたと言う。

主演の山田孝之は段々村西本人に見えてくる。駅弁発祥の秘話も自身で演じて迫力がある。脇役ではトシのチンピラヤクザ振りが凄い。また、裏でヤクザと通じている刑事役のリリー・フランキーは大河ドラマで緒方竹虎を演じている時と顔が違い、なんとなくダラっとした怪しい雰囲気を醸し出している。黒木香 (佐原恵美) は腋毛を伸ばし、当時の黒木の喋り方をマスターしており、本人かと見紛う演技力であった。尚、アダルト・ビデオ店の主人としてピエール瀧が出演していた。

本作は国内ばかりでなく、海外でも評判が良く、米国最大の映画評論サイトである”Rotten Tomatoes”でも高評価を得ている。NETFLIXは世界をマーケットにしているため、製作費を掛ける事が出来、こういう作品を作ることができる。最近ツタヤでも映画でなくTVドラマのレンタルが幅を効かせており、「劇場で見る映画」→「DVD」→「配信」という時代の流れは抗いようのない気がする。ちなみにシーズン1は昭和の終焉と共に終わっており、現在製作中のシーズン2では平成の、だんだん落ちぶれていく村西とおるが見られそうだ。

パノニカ/ハナ・ロスチャイルド著 小田中裕次訳

1950,60年代のビ・バップや当時のモダン・ジャズを好きな人なら「ニカ男爵夫人」(キャサリン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド)という名前を一度は聞いたことがあるだろう。ニカはロスチャイルド家の一員で、文字通り深窓の令嬢であったが、1949年セロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」に心を奪われ、1951年ニューヨークに移住した。その後、亡くなるまでセロニアス・モンクを始めとする当時のジャズメンを物心両面で支え続けた。もしニカがいなければジャズの名曲・名演の多くが生まれなかったと言っても過言ではない。

Kathleen Annie Pannonica (1913 – 88)
メキシコにて(34歳)

ロスチャイルド家の創始者であるマイアー・アムシェル (1744-1812)はドイツ・フランクフルトで唯一ユダヤ人の居住が許可された非常に狭く、汚い貧民窟で生まれ、常にキリスト教徒から差別されていた。彼はキリスト教徒の嫌がる金貸しを始め、1770年代には綿製品や穀物取引も始めた。その後10人の子供のうち、生き残った5人の息子をフランクフルト、ベニス、ロンドン、ナポリ、パリに送り出し、1820~1860年代にかけてヨーロッパにおけるロスチャイルド家の地歩を固めた。特にロンドンの二代目ネイサン・メイヤーはロスチャイルド家中興の祖であり、為替相場、債券取引市場を開設し、莫大な利益を上げた。ロスチャイルド家はその頃、既に富と権力の代名詞となっており、普仏戦争の戦費、英国のスエズ運河買収資金やポルトガルからのブラジル独立資金の調達などヨーロッパの歴史の中で数えきれない重要な役割を果たしている。また日本の日露戦争戦費調達にも関与している。余談ではあるが、彼らはフランスでワイン生産にも力を入れ、現在でもロスチャイルド(カタカナ表記でロートシルト)の名が付く高級ワインが販売されている。

ロスチャイルド家は英国とヨーロッパ各地に豪邸や城を所有していたが、ニカは英国の城で生まれた。ロスチャイルド家では男子は学校へ行くが女子は許されなかった。彼女は常に乳母、侍従、家庭教師に囲まれて過ごし、毎日規則正しい生活を送った。邸外に出ることは少なく、終日自室で過ごす事も多かった。お金を使った事も無く「一人では自分をどう世話して良いのか分からない」という生活だった。16歳になって始めて両親と夕食を共にする事を許された。フランスのシェフが高級な料理を作っていたが、一週間のメニューは決められており、余りの単調さにうんざりしたと述べている。

ニカが17歳になった夏(1930)、姉のリバティとフランス、オーストリア、ドイツ へお供を引き連れて出かけ、ヨーロッパ社交界にデビューした。現地紙は二人の動向を逐一報道した。令嬢姉妹はそれまで政治的な事を意識したことは無く、ドイツでヒトラーがユダヤ人を敵視していることをこの時初めて知った。ニカは19歳になって 良き伴侶を見つけるためロンドン社交界にデビューした。英紙、The Timesにパーティの参加者、ドレス、そのデザイナー等が連日詳報された。しかしニカは社交界で認められることに興味は無く、アメリカのジャズとミュージシャンに夢中だった。

ニカが22歳(1935)の時にロスチャイルド家親族の昼食会で出会った10歳年上のジュール・ド・コーニグズウォーター男爵に夢中になった。ジュールはニカをフランス、ドーヴィルの別荘に招待した。運転手と侍女が同行したもののニカにとっては初めての胸躍る海外一人旅であった。しかしこの時二人の相性に不安を感じたニカは姉のリバティに助言を受けるという名目で姉のいるニューヨークに向かった。真の目的はアメリカ音楽であった。当時のニューヨークはジャズだけでなく、前衛絵画、オペラ、文学と新しい波が興り、退屈なヨーロッパとは対照的であった。結局1935年9月、ニューヨークで挙式を行った。New York Timesは「億万長者ロスチャイルド家の令嬢が結婚」という見出しで詳細な記事を掲載した。

新婚旅行後彼らはパリで暮らし2人の子供を設けた。この頃ヒトラーの台頭でロスチャイルド家といえどもユダヤ人差別受けていた。1939年ジュールが出征したが、彼女はパリに留まり、パリが陥落し、独軍がパリに到着する直前迄、難民を屋敷に受け入れていた。ニカは若いころ自動車の運転と航空機の操縦を会得していたが、飛行機の油を買える状況ではなく、最後の船で多くの難民と共に英国へ帰還した。

ジュールはド・ゴールの呼びかけに応え自由フランス軍に志願した。ニカもジュールの後を追って自由フランス軍に志願した。当時は女性を兵士として前線に送る事は許されなかったが、ニカは命令を無視して夫のいるアフリカへ向かった。アフリカではマラリアに罹ったが回復し、夫との再会を果たした。現地でニカは軍人として爆撃機に搭乗していたそうだ。当時ヒトラーはユダヤ人殲滅を目指し、多くのユダヤ人を収容所に送り込んでいた。ロスチャイルド家でも何人かが収容所で殺されている。著者はヒトラーの反ユダヤの目的はロスチャイルド家の殲滅だと言っている。フランスのロスチャイルド家の多くの財産、美術品はナチスとフランスビィシー政権により没収された。

戦後、夫のジュールは外交官としてノルウェーに赴任。その後メキシコが任地となり移住した。ニカと厳格な夫との結婚生活は破綻に向かっていたが、ニカはメキシコに行けばニューヨークへ出かけやすくなるだろうと考えていた。1949年ニカはニューヨークからの帰途、旧知のピアニストであるテディ・ウィルソンからセロニアス・モンクのレコードを聞かせてもらった。彼女は衝撃を受け、20回続けて聞いたという。(しかし、当時の批評家はモンクのピアノを酷評していた。) このため帰りの飛行機に乗り遅れ家には帰らなかった。。

ニカはニューヨーク・セントラルパークに接するスタンホープという高級ホテルのスィートルームに引っ越し、すぐに白いロールスロイスを買った。彼女はスピード狂で交通規則は殆ど無視していたらしい。ニカは毎日夕方に起き52通りのジャズクラブで朝までジャズを聴き、当時新進気鋭のミュージシャン、作家、画家と交流した。しかし、お目当てにセロニアスモンクを探し出せなかった。 モンクは1951年にヘロイン所持で逮捕され、その後7年間キャバレーカード(日本で言う芸人鑑札)を取上げられ、演奏が出来なかったからだ。 ニカは自分の将来を考えるため1954年にイギリスに戻り、正式な離婚手続きを進めた。

ニカが英国に戻った年にモンクがパリに来ると聞き、すぐにパリに向かった。その演奏を聞いた瞬間からニカの人生は変わった。それから28年間、ニカは人生をセロニアス・モンクに捧げた。その後ロンドンに戻り、ロンドンで最高かつ最大のロイヤル・アルバート・ホールの日曜日を6周連続で押さえた。英国の聴衆にモンクを紹介するためである。しかし、モンクのバンドメンバーは公演許可が得られず、彼女は政府や有力な地位にある知人に陳情したが無駄だった。ニカはニューヨークに戻り、その後二度と英国で暮らすことは無かった。

ニカは早速、毛皮を着て白いロールスロイスに乗り、猛スピードでモンクのいるニューヨークサンファル地区という黒人街へ向かった。モンクを迎えるとニカはホテルの部屋にピアノを置き、モンクは殆ど毎日そのピアノを弾いていた。夜はクラブでジャムセッションに参加し、終演後はミュージシャンたちをホテルに招き食事を振舞った。このホテルは人種隔離をしていたので、黒人ミュージシャンは業務用エレベータでニカの部屋に向かった。毎日の食事にも不自由していたミュージシャンにとっては夢のようなご馳走であった。

ビ・バップの創始者、或いは神様と呼ばれたアルトサックス奏者のバードことチャーリー・パーカーは1955年3月12日夜ニカの部屋を訪れた。その時既に、コカインで酷い容態であった。そして部屋のソファで息を引き取った。クリントイーストウッド監督の「バード」では往診に来た医者にも愛想よく相対し、静かに死んでいくが、実際には肝硬変と胃潰瘍の酷い痛みに襲われたいた筈だと著者は推測している。

「ジャズ界の”バップ”の王様、バードことチャーリー・パーカー、53歳、サックス奏者、は土曜日夜大金持ちであるニカの五番街にある高級マンションで死んだ、そしてそれ以降ベルビュー病院の遺体安置室に留め置かれ、月曜日の夜まで公にならなかった。」(以下略)

問題は紙面にもあるように土曜日に死んだことが月曜日に公になった事である。これについては色々な説があるが、現時点でも全てが解明されたとは言い難い。タブロイド紙はスキャンダルとして書き立てた。警察の捜査もあり、ニカはホテルから追い出される羽目となった。これを聞いたジュールは怒り狂い離婚手続きを進め、子供の親権を奪った。この事件以降ニカは孤独になったためか、ますますモンク一途となり、モンクが起こした事件の身代わりになって警察の捜査を受けた事もあった。このようにニカはモンクのみならず多くのジャズメンに献身的に支援した。本書には、その頃の興味深いエピソードが綴られている。

1970年代に入るとモンクの健康はすぐれず、演奏にも支障が出始めた。ニカは何とかモンクを助けようと色々な医師と相談し、入院もさせたが1976年7月4日が最後の演奏となった。その後入退院を繰り返し、1982年2月5日、激しい心臓発作を起こし帰らぬ人となった。モンクを失ったニカは英国に帰る事も出来た筈である。しかし、ニカはその生活を変えなかった。昼過ぎに起きだし、ベッドで新聞、雑誌を読み、音楽を聴き、夜になるジャズクラブへ行く。そんなニカもついに癌と肝炎で1988年11月30日に亡くなった。享年74。

ニカに世話になった多くのジャズメンは彼女への感謝の印として彼女にちなむ曲を作曲している。また、モンクの作曲した Round about midnight, Straight no chaser, Blue Monk, Well you needn’t, Misterioso, Panonica, Ruby my dear, Epsitrophy等は多くのジャズメンにカバーされた人気曲でモンクは作曲家として評価される場合も多い。

ニカはロスチャイルド家の第五世代、著者のハナ(1962年生)は第七世代である。著者がロスチャイルド家の一員なので、ニカの幼少期から米国に渡るまでの生活が細かく描写できている。ニカがニューヨークに渡った1951年は戦争で破壊され、暗く重苦しいヨーロッパに比べ、米国は自由闊達な天国に見えた筈である。ニカは生涯、豪奢な生活を送っていたが、ヨーロッパでは自由だけは得られなかったのだろう。

ニカが初めて聞いて衝撃を受けたセロニアス・モンクの「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」

そんなもんだよ しょうがない/昭和のいるこいる

最近、本に関する投稿が多く、このブログ本来の「あなたをトホホと言わせたい」という趣旨から少々逸脱しているのかな、という気もします。そこで、トホホと言わせてくれそうなのいるこいるを取上げてみました。

この前、久々に「エンタの神様」を見た。しかし、なんか面白くない。この番組が始まった頃は腹を抱えて呵々大笑だったんですが、歳のせいでしょうか?最近は前にも言ったかもしれませんが、顔半分でハハんと笑える半笑い位が丁度良い気がしており、余りアクションや衣装や奇声の激しいコントは疲れる感じもあります。やはりしゃべくり漫才が安心です。

この歌は最近「先生」と呼ばれている高田文夫の作詞です。先生は結構色々作詞をしており、今度高田文夫作詞曲を特集してみたいと思います。この歌は歌詞はまあまあですが、玉置浩二の作曲が今市の感じがあります。その次はのいるこいる35周年の記念漫才です。彼らの漫才は常に全く同じパターンで安心して聞けます。マンネリの効用でしょうか。

 

トホホ度 ★★★★
お笑い度 ★★★
意味不明度 ★★☆
(1)そんなもんだよしょうがない 作詞:高田文夫 作曲:玉置浩二
(2)昭和のいるこいる 35周年記念漫才

映画「グリーン・ブック」のドン・シェリー

この映画はアカデミー賞を受賞したこともあり、ご覧になった方は多いと思います。黒人で金も教養もあり礼儀正しいピアニストのドン・シェリーがイタリア系白人で金も教養も無いが腕っぷしだけは自信のあるトニー・リップを当時 (1962) 未だ人種差別のきつかった南部への楽旅の為に運転手兼用心棒として雇います。南部の都市を演奏して回ると予想通り種々の差別にあいトニーが体を張ってドンを守りました。そんなドタバタの中で二人がお互いを徐々に認め合うという良いお話で、このストーリーは実話だそうです。尚、グリーンブックというのは当時黒人が宿泊できるホテルや黒人が入られるレストラン等を纏めたガイドブックのようなものです。


Tony Lip (運転手兼用心棒)と Don Shirley(ピアニスト)

ドン・シェリー(1927 – 2013)はジャマイカのキングストンに生まれ9歳の時に招待によりレニングラード音楽学院に留学しています。1945年にボストン・ポップス・オーケストラに招かれ演奏活動を開始しましたが当時のクラシックファンは黒人が舞台で演奏する事を受け入れず、ついに彼は挫折してしまいます。このため1953年にクラシックを諦め、黒人でも受け入れてくれるポピュラー、ジャズ音楽へ転向しました。

私は彼をこの映画で初めて知ったので音を探してみました。このCDは彼の”Don Shirley Piano (1959)”と”Don Shirley Trio (1960)”という二枚のLPを一枚のCDに纏めたものです。前者は一曲ごとに趣向を凝らしてはいますがジャズを弾くという意欲が少々空回りしている感じがします。後者は無理をせず素直にベースとチェロに合わせて歌いあげており、前者とは★一つの差がある感じです。南部への楽旅は1962年ですから、多分クラシック以外の演奏においても自己を確立し、自信も出てきた頃ではないでしょうか。そんな時に実際に差別を受けた彼の落胆は映画にも出てきますが、かなりのものだったと思われます。

ジャズのピアノトリオの始まりは戦後で当初はピアノ、ベース、ギターでした(例えばナット・キング・コールトリオ) が後にピアノ、ベース、ドラムスという編成が標準になります。しかし”Don Shirley Trio” ではピアノ、ベース、チェロになっています。やはりクラシックの人なので自身で編曲しやすいようギターの代わりにチェロを使ったのではないかと思われます。

このCDから二曲選んでみます。まず”Tribute To Billie Holiday”です。ビリーホリディが歌っていた ”Travelin’ Light” – “Don’t Explain” – “Easy Living” – “God Bless The Child”をメドレーで演奏しています。ビリーホリディへのトリビュートというとマル・ウォルドロンの”Left Alone”が有名ですが本曲はレフト・アローンの様に泣きまくらず、堂々と彼女へ語り掛けるようなリスペクトが聞き取れます。また、このメドレーの選曲がニクイ。彼女の一生を彼女が得意としていた歌をつないで表現しています。次は”By Myself”という小品です。一人になって自分だけ、という感情を非常にやさしいタッチで弾いています。

(1) Tribute to Billy Holiday
(2) By Myself

この命、義に捧ぐ/門田隆将著

一読三嘆、事実は小説より奇なり。
以前仕事の関係で台湾海峡の地図を眺めていた時に、中国福建省厦門(アモイ)の沖2~3㎞の金門島が台湾領である事を知った。恥ずかしながら何故かは分からなかった。しかし、本書には金門島が台湾を守った。そして金門島を旧陸軍根本博中将が守ったという驚愕の事実があった。

根本博は元日本陸軍北志那方面軍司令官であった。8月15日の玉音放送の後、武装解除の命令が出たが拒絶した。上官の命令は絶対であり、従わないのは重大な軍紀違反である。しかし根本中将は内蒙古の在留邦人の命を救うため終戦後もソ連軍と激戦を展開し現地の軍人軍属、その家族約4万人を日本に引揚げさせた。一方、満州の関東軍は武装解除したため日本軍が遺棄した武器をソ連軍が接収し、その武器で多くの日本兵が殺され、シベリア抑留の憂目に逢った。

ソ連軍の侵攻を食止め、邦人救出に尽力する根本を、それまで敵であった国民党の蒋介石総統は黙認し攻撃するどころか援助してくれる場面もあった。また蒋介石は1943年のカイロ会談でルーズベルトが日本敗戦後、天皇を処刑すべしと主張したが、頑として反対した。後年この二つに根本は非常な恩義を感じたと語っている。

戦後、蒋介石が率いる国民党と毛沢東の共産党との国共内戦が勃発し、国民党は敗走を重ねた。当時、日本にも何とか国民党を助け、中国が共産化するのを防ぎたいという人士があり、根本自身もそう思っていた。そこで根本を現地に派遣する事で纏まった。しかし当時の占領下では日本人が外国に行くには密航しかない。よって台湾人や日本人の有志が台湾密航のため、金策に走るが思うように資金が集まらない。しかし時間がないので根本は家族には釣りに行くと言って 釣り竿とほんの少しの身の回りの品を持って鶴川の自宅を出た。

当初博多からの予定であったが、船の調達が上手く行かず、急遽宮崎からの出航になった。船といってもオンボロのポンポン船しか無い。昭和24年6月(1949)、夜陰に乗じて船出したが機関が故障したり、船底に浸水したりで、 まさしく命がけの台湾行であったが14日後無事、基隆に到着した。しかし怪しげな密入国者一団と見做され投獄される。二週間後根本の素性が知れ、四年ぶりに後蒋介石と会見出来た。

蒋介石は根本を信頼し、国共内戦の作戦参謀顧問を依頼する。その時点で国民党は上海、重慶も放棄し敗走を続け、最後の拠点は厦門のみとなった。根本は早速現地に赴き、調査を開始する。しかし当時の戦力では勝てる見込みがなく、食糧の自給も無理と判断した根本は厦門を捨て、沖合の金門島で敵を迎え撃つ事にした。厦門での抵抗で時間を稼ぎ、その間、塹壕を掘り補給路を整備し、地元住民に塁が及ばないよう細心の注意を払った。

10月24日ついに数百隻のジャンクに分乗した約3万の共産党軍が侵攻してきた。しかし共産党軍は連戦の勝利で油断があったためか根本の作戦通り、すり鉢型の海岸に誘い込まれ、周囲から攻撃により多くの戦力を失った。また敗走できないよう塹壕に隠れていた兵隊が敵の船を焼き払った。 その後金門島は地下要塞化を完成し朝鮮戦争で米軍が台湾海峡を封鎖したため、共産党軍の海上侵攻は不可能となった。暫く放火が飛び交ったが金門島と台湾は守られた。

根本が台湾に渡った事はGHQの知る事となり当時の国会でも取り上げられた。また戦後、軍人への反感が強まっていた新聞、雑誌がかなりのバッシングを行った。世間の厳しい目に晒された留守家族には、このためか何の保証も、援助もされなかった。

三年後根本は帰国した。羽田空港で航空機から降り立った時の写真が残っているが、右手にはしっかり釣竿が握られていた。羽田での記者会見で「終戦時百万の将兵を無事帰国させて下さった蒋介石総統に日本人の一人として万分の一の恩返しをした。」と語った。また現地では助言はしたが「前線に出て部隊の指揮をとったりしたことはない。」とはぐらかし金門島戦には一切ふれていない。確かに根本は作戦を立案したが部隊を指揮したのは国民党軍の将校であった。

平成21年(2009)この地で戦役60周年記念式典が開催されたが当時の馬英九総統は根本の貢献に言及しなかった。かつての敵国である日本人の手助けを得て国民党軍が勝利したとは言えない面子があったからだと思われる。 このように殆ど抹殺されかけていた根本の事績を大変な調査、取材活動を重ね、記録に留めてくれた著者には頭が下がる思いがする。是非本書の一読をお勧めする。(第19回山本七平賞受賞)